長めの話を置いています
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索引
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ピース
 エレベーターを通り過ぎ、いつもの習慣で郵便受けを開ける。入っているのはダイレクトメールや風俗系のチラシ、たまにガスや水道の料金請求書。いつも同じようなものだったが、今日は細長い封筒が一通、混じっていた。
 紙の束を適当にコンビニ袋に入れ、少し首を傾げながらエレベーターまで戻った。エレベーターは最初から一階にいたようで、上ボタンを押すとすぐにドアが開いた。乗り込んで今度は六階を押した。しばらくするとドアが閉まり、確実に一人になった僕は、さっきの封筒を取り出した。
 封筒の宛名にはちゃんと僕の名前が書いてあった。住所は一度書いたものを訂正してあり、実家の誰かが転送してくれたらしい。封は開けられていない。表にも裏にも差出人の名前は書いていなかった。
 誰からだろうとぼんやりと考えているうちに、エレベーターが六階に着いた。箱から降り、自分の部屋に行く。いつもよりいくらか急いで歩いた自分に軽く苦笑を浮かべた。
 部屋の隅に鞄を落とし、冷蔵庫からヱビスを取り出した。テレビを点けると蟹江敬三が渋い声を出していた。とりあえず座って、ヱビスを飲みながら買ってきたツマミを開ける。橋爪功と蟹江敬三の声をBGMに、さっきの封筒もぺリペリと開けた。中には三つ折りの手紙と、写真が一枚、入っていた。
 何故だか名取裕子を想像していた。当然のことで、写真に写っていたのは名取裕子ではなかった。同世代の女性、二十代後半。真っ直ぐな笑顔をカメラに向け、恥ずかしげもなく思いっきりピースをしている。何となく見覚えがあるような気がした。「誰だろう?」と記憶を探りながら、今度は手紙を広げた。
 ――わりと写真うつりがよかったので送ってみます。
 そんな書き出しだった。下に女性の名が記してあり、考えもなく、その名前を口の中で転がしていた。舌が憶えている感じだった。呼んだことがある。いつだろう? いつ呼んでいたのだろう? 結構昔だった気がする。前の勤め先、大学、高校、中学……と記憶を巡らせていると、ふいに幼い笑みが浮かんだ。「にへへ」という勝ち誇った笑み。「ああ」と、彼女の名前と笑顔が頭の中で繋がった。
 中学のときの同級生だった。そのときはろくに口を利かなかったのだが、別々の高校に進んでから、ちょっとしたきっかけで話すようになった。少し変わった種類の知り合いだ。けれどもう十年近くも会っていない。住所は卒業アルバムなどで調べたのだろうか。年賀状のやり取りもしていなかったはずで、僕は彼女の住所も電話番号も知らない。いろいろな不可解さと、しかし懐かしさもあり、僕はもう一度写真に目を落とした。
 ピースサインで満面の笑み。それから病院のベッド。
 彼女は薄いブルーのパジャマを着ていた。やけに白い包帯が、頭と腕に巻きついていた。


 白かった。
 蛍光灯が真上にあって、わたしは自然と目を細めていた。見覚えがなかった。自分の部屋の天井とは違っていた。まるで病院の天井みたいだと思っていると、医者と看護婦がやってきて、医者はにこやかな顔で「気分はどうですか」と聞き、わたしの名前や親兄弟のことを続けて聞いた。そして問診のようなことをはじめた。わたしは素直にひとつひとつ答えていく。ところどころで看護婦がメモを取り、最後に「気分が悪くなったらすぐに呼んでくださいね」と言った。わたしは微笑んで、「大丈夫です」と応えた。
 それから一時間もしないうちに両親が来て、すぐに母が泣き出した。父の目も赤くなっていた。泣き言のような説教のような言葉を聞き、「ごめん」とわたしがぼそぼそ呟くと、「まあゆっくり休め」と父が怒ったような顔で言った。
 翌日、弟の利樹が来て、皮肉っぽく笑いながら、「こけちゃったな」と言った。そこでやっと、「ああ、わたしはこけたんだ」と実感した。
 バイクでこけた。細かな雨が降っていた。道路に捨てられていた空き缶を踏んだ。缶は半分だけ潰れていた。一日半ほど意識不明になり、親を泣かせ、弟に退屈しのぎの本を買ってこさせた。
「どうすんの?」
 利樹が丸椅子をガタガタさせながら聞いた。
「どうって?」
 聞き返しながら、買ってきてもらった本を受け取る。小野不由美の屍鬼。前から読みたかったのだけど、その長さに読むのを躊躇っていたものだ。
「バイク」
 利樹は簡潔だった。やや簡潔過ぎるところがある。
「……どうかなぁ」
 両親は二人とも、わたしがバイクに乗ることを反対している。乗りはじめてから、いや、乗りたいと言い出してからずっと反対していた。わたしはことあるごとに「危なくないから」と言い続けて、事故らないように心掛けてきたはずなのに、現実には空き缶であっさりと転んで、今は病院のベッドの上で文庫本を見つめている。表紙のほの暗い絵が、今の気分と妙にマッチして笑えてしまう。
「バイクどうだった? 知ってる?」
 気分を変えるように顔を上げると、利樹は少し表情を曇らせた。
「壊れてた」
 ほんと簡潔だね、あんたは。
「どのくらい?」
「んー……、がっかりするくらい」
 想像して、深くため息をついた。
 潮時だろうか。もう27だ。給料の大半をバイクにつぎ込む生活を変えるいい機会かもしれない。同期の子が恋とか愛とか仕事とか結婚とかクリスマスとか言っている間、わたしはずっと海岸線を走ったり、山道を走ったり、ふと蕎麦が食べたくなって長野に向かったり、途中でガス欠になりかけて焦ったりしていた。一般的なOL像からはかなり外れている。今バイクをやめたら、何かしらのイベントでまだどうにか騒げるだろうし、爪の間に入った油がなかなか落ちない苦労からも開放される。いいことずくめ、というわけにはいかないだろうけど、そう悪いこともないはずだ。
 でもなぁ、とわたしはもう一度ため息をついた。
 でも、わたしはバイクが好きで、あの振動が好きで、風景が流れていく感覚が好きで、コーナリングの感触を愛している。オイルやガスのにおいも決して嫌いじゃない。冬は死ぬほど寒いんだけど。
 そこまで考えて、ふいに両親の顔が浮かび、気持ちが重くなった。
 二人とも泣いていた。お母さんも、たぶんお父さんも。バイクはがっかりするくらいに壊れていて、そしてたぶん、わたしの命があったのはただ運が良かっただけなのだろう。またバイクに乗りたいと言ったら、二人とも呆れるだろうか。罪悪感に苛まれながら乗るバイクは、果たして楽しいだろうか……。
「あっ、そうそう」
 わたしがそんなふうに悶々と考え込んでいると、利樹が唐突に立ち上がり、自分の鞄を漁りはじめた。ベッドから離れつつ、パッケージに入った黒い物体を取り出す。
「写ルンです、買ってきたんだ」
 それには「スナップキッズ」と書いてあった。ボケなのかマジなのか、それとも使い捨てカメラは全部「写ルンです」なのかはわからないが、その微妙さ加減とふいを突かれたのとで、わたしはつい吹き出していた。笑いながら、何気に良い弟を持ったなと思った。
「とりあえず記念に一枚」
 適当に離れた利樹がカメラを構えながら言う。
「何の記念?」
 わたしはニヤニヤしながら聞き返した。
「んー、えっと」
 利樹はカメラを外し、左手で顎を撫でながら考えて、
「長き眠りから覚めたお姫様の……えと」
 ――お姫様が長き眠りから覚めた記念、とか言いたかったのかな?
「まあいいや。目覚めた記念に」
 あっさり過ぎなのもどうにかしたほうがいいと思うぞ、弟よ。
「じゃあそれで」
 わたしは苦笑しながら一応それにノッた。利樹はいつもよりお気楽そうにしている。わざとそうしているんだろう。見ているとざわざわとした感情が沸き上がってくる。その気楽さに対しての苛立ちと、嫉妬。他にも感謝とか諦めみたいなものや、それから「ごめん」とかがあったけれど、どれも言葉にはしなかった。
「まあ、目覚めて良かったよ」
 穏やかな利樹の言葉に、目覚めなかったときのことを思わされた。そう低くない確率だったのかもしれない。本当に運が良かっただけで。息をつき、腕の包帯を見下ろした。暗い表情をしていたのか、弟が「ん?」と様子を伺うように首を傾けた。
 ふっと強く息を吐いてから顔を上げ、軽く微笑んだ。とりあえず今は幸運と、お気楽な弟に甘えておこうと思った。
 利樹がもう一度カメラを構える。わたしは右手を伸ばしてピースをつくった。「いくよー」という利樹の間延びした声に合わせて、ゆっくりと笑った。


 夕暮れ時だった。僕は油で汚れた作業着を着て、バイクの前に座り込んでいた。彼女は偏差値の高さを売りにしている高校の制服を着ていて、ぽかんと口を開けたまま突っ立っている。僕は彼女を見上げていて、彼女は僕を見下ろしていた。
 見覚えがあった。たぶん中学か小学校の同級生だろう。目を逸らせば簡単に終わりそうで、何となく僕はそうしようかと思ったのだが、その前に彼女が僕の名前を呼んだ。
「うん」
 反射的に返事をしていた。しまったなぁ、と思いながらも僕は微笑んでいた。近所のおばさんじゃない女の子なんて慣れていないから、笑みはたぶんぎこちなかったはずだ。
「何……してんの?」
 彼女は何の警戒もなく、好奇心の赴くままに近寄ってくる。
「バイト」
 僕は簡潔に応えた。
「えーと、バイク屋?」
「まあ見ての通り」
「ふーん。でもなんで?」
「なんでって……」
「あっ、ごめん。なんかイメージじゃなかったから」
 彼女はしゃがんで、僕と目の高さを合わせる。顔が近い。このくらいの女子ってのは緊張しない生き物なのだろうか? 僕は目を逸らしながら言う。
「盗んだバイクで走り出そうとしたんだけど……」
「うん」
「バイクの盗み方を知らなくて、で、今教わってるところ。直結とか」
 ちょっと前に辞めたバイトの先輩のネタだった。「いつでも使っていい」と言われていたのだが、使う機会なんかほとんどないので忘れるところだった。でもこれで先輩も本望だろう。思わず「成仏してください」と祈りかけて、「違う違う」と心の中で突っ込んだ。
「へえ。……でもさ」
 明らかなネタなのに、彼女はマジにとったらしい。
 僕は「あれ?」という感じに振り向いた。たまたまうつむき加減だった。たまたま太股とむき出しの膝が視界の真ん中にきていた。スカートの中身はぎりぎり見えなかった。たまたまだった。顔が赤くなる前に視線を上げて、彼女と目を合わせた。彼女はやけに真剣な目で僕の顔を覗き込んでくる。思わず目を伏せたくなったが、そういうわけにもいかず、何とかこらえて見つめ合った。
「でもね、バイク盗むのって、犯罪なんだよ」
 やけに真剣な口調で言った。
「……知ってる」
 僕は毒気を抜かれた顔をしていたと思う。彼女は真剣な顔を崩さない。やたらと真剣だった。真剣過ぎですよお嬢さん。笑いがこみ上げてくる。ああ、これは負けたなと思い、僕は素直に吹き出した。
「そりゃ犯罪だけど」
 僕がそう言うと、彼女は「にへへ」と勝者の笑みを浮かべた。
 強引にガードをこじ開けられた僕は、彼女にバイクの話をした。店長や他のバイトの人もいたが、見て見ぬ振りをしてくれていた。彼女は好奇心の赴くままにいろいろ聞いてきて、僕もいろいろ教えたが、直結のやり方は教えなかった。
「じゃあ今度、後ろ乗せてね」
 帰り際、口元で笑いながら彼女が言った。
「道路交通法違反」
 僕はわざとらしく真剣な口調で返した。彼女は少し考え、
「んー、じゃあ……、わたしも免許取るからー、今度一緒に走ろうねー」
 店長や他のバイトの人にも聞こえるくらいの声だった。ニヤニヤと笑っていた。そして彼女は、わざとらしくぶんぶんと手を振りながら帰っていった。その後姿を眺めながら、やられたなぁ、と思った。
 振り返ると、店長と他のバイトの人がニヤニヤ笑っていた。さっきの彼女と同じようなニヤニヤ笑いだった。二連敗。彼女はたぶん面白がってまた来るだろう。思いがけずに強敵が現れたわけだけど、でもそれを楽しんでいる自分もいて、何だか妙な気分だった。
右目の行方
 いつもながらの味わい深い古本屋で、「それ」以外は特に変わりはなかった。最初は強盗かと思ったのだが、レジを荒らされた形跡はなく、だから次に痴情のもつれってやつかなと考えた。しかし、生前の彼女から「痴情のもつれ」を連想するのは何だか難しかった。基本的にのどかな性格で、ぽやっとした顔つきのカズミさん。今はレジの奥でパイプ椅子に座ったままぴくりとも動かない。首にコンセントの延長コードを巻いていた。巻かれていた。細い首がキュッと絞まりそこだけさらに細くなっており、皮膚が捩れて縫い目のような皺が刻まれていた。軽く口を開け、赤い舌がそこから覗いて、何だか妙にエロっちい。右目の上に白い眼帯が乗り、やぼったい眼鏡が重なっている。眼鏡は少しずれている。なかなかマニア受けしそうなフォルムだった。
 カズミさんは右目の取り外しができる。外した目のほうでちゃんと見ることもできるらしい。人に預けて目だけの旅行を楽しんだりするような少し変わった人で、だからたとえ殺されても私はさほど心配していなかった。
「カズミさん?」
 呼び掛けてしばらく待ったが返事はなかった。また眠っているのかなと思う。仕事中なのに。仕方なく私はレジの中に入り、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を持ってきて、カズミさんの隣に座った。適当な感じでレジの横に積んであった売り物の一冊を引き寄せる。小林泰三だったのでちょうど良い気がした。
 ホラー小説ってのは何故こうも長いのだろう。三十ページほど読んだところで、もう一度「カズミさん?」と呼び掛けた。今度は「ううん」と眠そうな声が返ってきた。やっぱり眠っていたみたいだ。
「カズミさん、生きてる?」
「んー、寝てた」
 そこは「死んでる」と答えるところだろうが!と思ったが、でもそういうところこそがカズミさんらしくもあった。
 苦笑しながら小林泰三を元の本の山に返すと、途端、山がぐらりと揺れた。無造作に積み上げられていた本が滑り雪崩になり――かけたところで私は慌てて山を支えた。「おいおい」と突っ込みながら立ち上がり、山の麓を見やると、分厚い新潮文庫がハードカバーとノベルスの間に挟まっていた。どうやら元より絶妙なバランスで積み上げられていたらしい。カズミさんの得意そうなことだった。私も家ではよくやってしまうのだが、古本屋でこうなるのは果たしてどうなのか。
「ちょっ、カズミさん」
 一応あんた店長だろうと山の製作者に目を向けるが、そのカズミさんはエロい顔をしたままでまったく動こうとしていない。
「んー、なに?」
 のん気な返事についムカついてしまう。赤い舌がずっと見えていることにも余計な怒りがこみ上げてくる。喋っていたときもその舌はまったく動いておらず、口もマヌケな感じに開いたままだった。私は両手で本の山を支えている。片手でも空いていたら「この口か! この口がゆうたんか!」とカズミさんのほっぺたを掴んで引っ張っているのだが、しかし今はそんなことをしている場合じゃなくて、
「崩れそうなんだって」
「……うん?」
 疑問形にちょっと殺意を覚えた。
「あ、あのね、支えとくから下の文庫のやつ抜いて。崩れるから」
「えっ? ……えーと、無理」
 あっさりとカズミさん。いや、何を言っているんですかカズミさん? 一応ここの店長なんでしょうカズミさん?
「なんでよ?」
 ムッとしながら私は聞く。カズミさんは相変わらずエロいままで微動だにせず、
「ほらあれ、……死後硬直?」
 だからなんで疑問形なの? ああ、でも死後硬直か。
「じゃあしょうがない、かな」
 ふぅっと息がもれる。
「うん、ごめんね」
「いや、謝ることじゃないんだけど。えっと……、ほんとに死んでたんだ」
「う、うん。見てわかると思うけど」
 いやいや、カズミさんに限っては見た目じゃわかんないから。と言うか死体は普通喋んないから。
 とりあえず両手と胸と腹と、あと膝なんかを駆使して崩れかけた本の山は自力で直した。絶妙なバランスに戻してから、三つに分けてレジに並べる。挟まっていた新潮文庫は真保裕一だった。そういえば推理小説も分厚いよなぁと表紙を眺める。とても寒そうなカバー絵だった。
 ついでに三つの山をハードカバー、ノベルス、文庫と大体で仕分けていく。何をやっているんだろうと思わなくもなかったが、流れでついついやってしまった。
 お金にならないひと仕事を終えたあと、私はまたパイプ椅子に腰を下ろした。
「ありがとー、おつかれさまー」
 カズミさんは陽気な声でお礼を言ってくれたが、その顔はやっぱりエロくて、まったくどうしたもんだろうと思う。ここは古本屋で一応ながら商売をしているはずだ。カズミさんのフォルムはお客をかなり驚かせてしまうんじゃないだろうか(まあ常連ならこういうのには慣れているだろうけど)。人ごとながら私はそんな心配をした。
 時間を確認すると三時半。寂れた店とはいえ、日が沈むころには冷やかしのお客くらい来るだろう。私はパイプ椅子を引き摺るようにしてカズミさんに近づき手を伸ばし、そのずれた眼鏡を直した。多少はマシかと思ったが、軽く開いたままの口がマヌケで、そこから覗いている舌がエロいままではどうしようもない気がした。
「ねえ、カズミさんは死んだままなの?」
「うん、たぶん」
 たぶんて。
「店、閉めとこうか?」
 とりあえず建設的な意見を提示してみる。
「うん……、でも閉めてたら心配されそうだし」
「えと、カズミさんの死体があるほうが心配されると思うけどね」
 苦笑混じりに私は言った。
「うーん……」
 そう言ったきりカズミさんは「うーん、うーん」と悩んでしまった。おやつの選択を迫られて心底困っている子供みたいな声だった。しかしそれでもカズミさんの顔はマヌケでエロくて動かないままで、私は笑っていいんだかどうなんだかよくわからない気分に陥ってしまう。視線を移し、レジに積んだノベルスの背表紙を眺める。知らない名前がいくつも並んでいた。タイトルから判断するに、やはりミステリー系統の本が多いようだった。何故カズミさんは殺されたのか? 誰にカズミさんは殺されたのか? そんなことを頭の中で呟いてみるが、どうも私はそういうのにはあまり興味がないようだった。
「あのね……」
 しばらくしてから、おずおずと、のようにカズミさんは言った。表情がわからないから声色だけでの判断になる。
「バラバラ殺人事件って」
「やだよ!」
 瞬間叫ぶ。気にせずにカズミさんは、
「運びやすいからバラバラにするんだって」
「やだって!」
 再度私は叫んだ。
「えー」
 えー、じゃねえよ。
「そういう血生臭いのは苦手だってば」
 カズミさんをバラバラにする自分を想像して、たちまちにぞっとした。
「だって――」
 すねたような声。顔はエロい。
「死体があったほうが心配されるって」
「それとこれとは」
「……大人はウソつきだ」
 思わず「大人はウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです」と応えかけ、慌てて口をつぐんだ。いや、どう突っ込んだらいいのかわからないよカズミさん。
 ぶつぶつ言うカズミさんを放っておいて、私は立ち上がりレジを出て、入り口のほうにいった。安っぽいクローズドの札を出し、扉を閉め、鍵をかけてカーテンを引く。隙間から光がもれるかもしれないが、これで一応誰も入ってこないだろう。戻ってくるとき、漫画の棚から何となく寄生獣の四巻と五巻を引っ張り出す。どうも私はそんな気分だったらしい。寄生獣は他には八巻だけがあった。
 漫画二冊をレジに置くと、カズミさんはぽそり、「五百円」と呟いた。さっきと同じすねたような声だったが、ちゃんと値札どおり言うところが微笑ましく感じたりもする。私は素直に財布を出し、五百円玉をレジテーブルにパチッと置いた。それからレジの中に入って、またカズミさんの隣に腰掛ける。
「閉めちゃったー」
 カズミさんは少しばかり……、わりとけっこう子供だった。
「うん」
 私はただ頷く。
「勝手にー」
「うん」
「いいって言ってないのにー」
「うん」
「バラバラ殺人事件」
「やだ」
 またぶつぶつ言い出したカズミさんを尻目に、私は寄生獣のページを捲る。ミギーは可愛い。シンイチはすごくいい。すぐに話にのめり込む。濃いざらざらとした緊張感。血生臭いのに悲しい。好き。
 ふと何かを思いつき、私は寄生獣から顔を上げ、天井辺りの虚空を見つめた。その思いつきを吟味し、どうだろうとひとりごちる。アリかナシかで言ったらナシなんだろうけど、カズミさんならアリかもしれない。言ってみても損はなさそうだった。
「ねえねえ」
「えっ、何?」
 すねていたはずなのに、呼び掛けるとカズミさんはどこか嬉しそうな声で応えた。カズミさんのそういう種類の子供っぽさはわりと可愛いらしく思う。
「カズミさん、右目ずっと誰かに預けてたよね?」
 けっこう前からカズミさんは眼帯をしている。どこかで右目を落とし、誰かに拾われてそのままになっていたはずだ。ペットのようにして飼われているのだと、いつだったかカズミさん本人から聞いたことがある。
「うん、今、昼寝してる」
 もうそろそろ夕方だけどね。いや、それはともかく、
「ねえ、その右目で何とかならない?」
「何とか?」
 小首を傾げるカズミさんを想像するが、実際に今隣にいるのは舌を出したままでエロいカズミさんだった。
「そう。その右目から体とか作れないかなぁ」
 私は妖怪人間ベムのおどろおどろしいオープニングを思い浮かべながら言った。
 カズミさんは「うーん」と戸惑ったような声を上げたが、
「ん、やってみる」
 すぐに前向きに応え、それから集中するためにか黙り込んだ。
 私はその間、寄生獣を弄んだ。パラパラと捲ってみるが、何となく気もそぞろになってしまい、ただカズミさんの横顔を眺めた。いつの間にかまた眼鏡がずれていてサイズが合ってないんじゃないかとか、右手だから「ミギー」で右目もミギーだけどまあちょっと変えるとして「ミメー」とか呼べばいいのかな、などと、まったくもってどうでもいいことを考えて時間を潰した。
 時計の秒針が二回りほどした頃に、
「うん、何とかいけそう」
 ようやくカズミさんはそう告げた。
 私は「おお!」と思わず拍手していた。拍手するようなことかどうかわからないけれど。カズミさんは「ふふん」と気取ったような、照れたような声をもらした。しかし表情はエロいままで、やはりどうにも違和感があったりしたが、
「ええと、実況しようか?」
 カズミさんは調子に乗ってそんなことを言う。
「何を?」
「白い目玉に付着したほの赤い肉のような物体が蠢き増殖し――」
「何だかグロそうなのでやめてください」
「えー」
 えー、じゃねえよ、だから。カズミさんの声はやたらと残念そうだった。
「で、どのくらいでカズミさんは範馬刃牙のように復活するの?」
 私はグッと伸びをして、それから椅子の背もたれに身体を預けた。バキをあまりよく知らないカズミさんは多少戸惑いながらも、「三十分くらいかなぁ」と答えた。カップラーメン風味なことを想像したのだが、そこまではお手軽じゃないようだった。
「三十分か……」
 呟きながら私は立ち上がりレジを出て、漫画の棚に向かった。寄生獣の八巻を半分だけ抜き出して、少し迷ってからまた納める。七巻があればなぁと思う。顎に手を添え、「うーん」と悩んだ。暇なときにでも読みたいと思っていた漫画があったはずなのに、タイトルも作者も、どんな内容だったかも思い出せない。でもまあ、けっこうありがちなことなので、鼻歌ひとつでやり過ごし、漫画の棚を端から端まで視姦する。本は身悶えなどしない。恥ずかしがって両手で顔を隠す擬人化された本を思い浮かべながら、背表紙を順に眺めていった。
 下のわかりにくいところに「すげこまくん」があった。永野のりこだった。瞬間、「おお」と声を上げてしまうほどの懐かしさに襲われ、思わず手に取っていた。表紙を撫でる。すげこまくんの愛しさは、私の理性を溶かしてしまう。二巻から五巻と、八巻があった。また八巻だった。カズミさんは八巻が好きなのか、或いは天丼が好きなのだろう。
 すげこまくんの二巻と三巻と、それから、なごみたい気分にもなっていたので、ささだあすかを一冊持って、またカズミさんの隣に戻った。
 カズミさんは何も言わなかった。子供のようにぶつぶつと文句を言ったりしなかったし、本代の請求もしてこなかった。「カズミさん?」と呼び掛けても返事はなかった。集中している、と言うよりかは、カズミさんの意識はもう「右目」のほうにいってしまったのだろう。今、隣にいるカズミさんは、本当にただの死体になってしまったようだ。
「……うーん」
 軽い感慨のようなものを覚えながらも、私はすげこまくんの二巻を開いた。決して真っ当ではないはずの漫画が、ひどく愛しい。これはたぶん、永野のりこが愛しいのだ。永野のりこを知らなかったら、私はもっと真っ当な性格だったかもしれないと、ページを繰りながらそんな都合の良いことも考えた。でもそれはありえなかっただろうし、真っ当じゃないのはとても素敵なことだとときどき心底思ったりしていたから、「ケセラセラ」とひとり呟いて、あとはすげこまくんの中に流れることにした。
 二巻を読み終えて顔を上げ、時計を見ると、二十分ほど経っていた。
「カズミさん?」
 呼び掛けたが、もちろん返事はなかった。あと十分ほどすれば、ここにカズミさんはやってくるだろう。いや、移動もあるから二、三十分ほどだろうか。それでもカズミさんの形をしたものが隣にいて、もう返事をしてくれないことに、妙な寂しさを感じてしまう。
「カズミさん……。おやすみ」
 言ってしまってから、それも変だよなぁと軽く自分を笑った。
 三巻を読み終えて、ささだあすかを読みながらまったりニヤニヤしているところで、何かを叩く音が聞こえてきた。次いで、「ただいまー」とのん気なカズミさんの声。入り口の鍵を閉めていたことを思い出し、私は仕方なく本を閉じて立ち上がった。時計を見るとあれからさらに二十分ほど経っている。予想通りの時間だったが、あと十分か十五分遅く――ささだあすかを読み終えた頃に来てほしかったと、少し勝手なことを思いながらも入り口のほうに向かった。
 カーテンを開けると、ドアのガラスの向こうにカズミさんの顔があった。少しの違和感があって、カズミさんが眼鏡を掛けていない事に気づいた。考えたら当たり前のことに少し驚く。「メガネは体の一部ですー」と、昔のテレビCMが頭をよぎっていく。
 それともうひとつ、左目の瞼が下りていた。たぶんその下に「目」はないのだろうと何故だか確信的に思う。振り向いてレジを見る。そこにいるエロいカズミさんには右目がない。「目」には神秘的なイメージがあり、私はそれで何の根拠もなく勝手に納得した。
 カズミさんは基本的にぽやっとしているのだけれど、実は少し吊り目で、眼鏡を掛けていないときの顔はやっぱりきつい感じになってしまっていた。あのやぼったい眼鏡がないと、どうもカズミさんらしくない気がした。
 ドアを開ける。カズミさんは私を見てあらためてにっこりと笑い、「ただいま」ともう一度言った。私は「おかえり」と微笑んで、店の中へと促す。立場が逆転しているなぁと一瞬思ったが、カズミさんに一度だってこんなふうに迎え入れられたことはないことに気づき、口元で笑った。
 カズミさんはスキップするように中に入ると、棚の前で立ち止まり、すぅっと息を吸い込んだ。それから、ふふっと鼻を鳴らすように笑う。古本屋には独特のにおいがあって、たぶんそれを堪能しているのだろう。そんなカズミさんの後姿を見ているうちに、私も特に意識していなかったはずのにおいを感じる。懐かしいような、どこか安心するような……。
 ふと、無意識に私はカズミさんに手を伸ばしていた。指先がカズミさんの首に触れる。
「んんっ」
 カズミさんはびっくりしたような、少し色っぽい感じの吐息をもらした。「もうっ」と振り返って私を見たカズミさんは止まって、すぐに困ったような感じに笑い、小首を傾げた。眼鏡を掛けてないカズミさんは大人っぽく見える。今、私はどんな顔をしているんだろう? 思いながら、両手でカズミさんの首を触る。自然に私の目はレジのほうに向いていた。レジの奥にもカズミさんがいる。あそこにいるカズミさんの首には、コードが巻かれている。今は冬で、多少暖房は効いているけれど、あのカズミさんはたぶん冷たくて、固いだろう。触れているカズミさんの首筋は、私よりも少し体温は低いけれど温かくて、私よりも少しばかり柔らかくて、そんな、その程度のことに、不思議なくらいほっとした。
「大丈夫だよ?」
 安心させるようにカズミさんは言った。
「うん」
 頷いて、私は手を下ろした。首の横を滑る私の指に、カズミさんはまた「んっ」と色っぽい息をもらした。私は微笑んで、ひとつ深呼吸する。さほど心配していないつもりだったのだが、思ったよりもショックを受けていたらしい。照れくさくなって私がそっぽを向くと、カズミさんは少し意地悪そうに笑った。
「何よ?」
 キレ気味に私が言うと、カズミさんは「んー、何でもー」とからかうような口調で応えた。少しばかり悔しくて、私は店番をしていたときの苦労をでっち上げて言い募ろうとしたのだが、その前に「そうだ」とカズミさんは何かを思いついたらしく、近くの本棚に駆け寄り、しゃがみ込んだ。
「これでやっと一緒にできるねー」
 本棚の下の引き出しを開けながら、やけに明るい声でカズミさんは言った。
「何が?」
 私は近寄って、カズミさんの背中越しにその中を覗き込んだ。そこには大抵、どこの本屋でも本の在庫が入っているはずだ。
「バラバラ殺人事件ー」
 カズミさんはドラえもん風に言って、バールのようなもの取り出した。
「…………」
 絶句する私にカズミさんはそのバールのようなものを差し出してくる。呆然としていたから、私もつい受け取ってしまった。カズミさんはまた引き出しに向き直ると、今度は釘バットを取り出した。バールのようなものが私のエモノで、釘バットがカズミさんのエモノらしい。引き出しの中にはもうひとつ、「巨大ハリセン」というそれはそれは恐ろしいエモノが眠っていた。
「えーとねえ……」
 突っ込みどころが多すぎて軽く途方に暮れてしまった。でもとりあえず私は引き出しの巨大ハリセンを掴むと、それでカズミさんの頭を力一杯叩いておいた。ズバン!となかなか素敵な音がした。
スペース1
 商店街の本屋にしてはわりと大きいほうだと思う。家族でやっていて、今現在、無職家事手伝いのわたしが店番をやらされている。二時半という中途半端な時間なので、店内のお客は三人ほど、車の雑誌を立ち読みしている眼鏡を掛けたサラリーマンと、漫画の棚を眺めているタイトスカートのOL、それから、パズル系の雑誌を物色中の渡会笑美がいる。
 渡会は中学校のときからの友人で、当時はそれなりに目を引くような真っ白な肌をした大人しい感じの少女だったけれど、中学を卒業して五年後の夏の日差しが、その肌を小麦色に焼いていて、彼女の印象を活発で健康的なものに変えている。小麦色は海で焼いてきたとかそういうことではなく、いわゆる土方焼けで、首から上と腕の部分だけが染まっている。彼女はガソリンスタンドで働いており、日祝よりも平日のほうが休みであることが多く、たまにこういう中途半端な時間、この店に顔を出すことがあった。
 眼鏡サラリーマンは何も買わずにほどなく立ち去り、その少しあとにタイトスカートのOLがBECKの最新刊を嬉しそうな顔をしながら買っていった。渡会はのんびりてれてれと店内を徘徊し、そのうちにクロスワードとナンバープレイスというパズル系の雑誌と、文庫本三冊を抱えてくる。レジに置いた。
「去年のM-1グランプリで準優勝したお笑いの人って、わかる?」
 渡会が唐突に聞いた。
「何文字? ……わたし、あんまりお笑い詳しくないよ」
「四文字。えっと、何とかキャンディーズ」
「南海キャンディーズ?」
 セクシィなしずちゃんがけっこう好きだ。
「あ、知ってるじゃん。……ありがと」
 お客がいなくなったのをいいことに、まだレジを通してない雑誌を広げ、二人してクロスワードを解いていく。渡会は映画ネタに明るく、わたしは小説や漫画ネタに強い。一応ながらもわたしは本屋の娘であるようだった。
「バニラ……スカイ」
 渡会がタテ8の答えを呟く。
「それの元ネタ……ていうかリメイクの……元になった映画って何だったっけ?」
 わたしの疑問に彼女は顔を上げる。
「ん? ええと、あれでしょ、うん。トム・クルーズじゃないほうの」
「そうそれ。何だっけ?」
「うーん。……言われたらわかるんだけど」
「スペインかどっかの」
「そう。……うーん、ここまで出てきてるんだけど」
 いい感じに話が脱線してきたところでお客が来て、わたしと渡会は自然と口をつぐんだ。クロスワードの雑誌を閉じ、裏表紙のバーコードを読み取る。続けてナンバープライス、文庫本とレジを通していく。値段を言ってお金を貰ってお釣りを渡してから、わたしはそっと彼女に顔を寄せた。小声で言う。
「今日、休み?」
「うん」
「あとで行く」
「オッケー」
 いつも通りカバーは掛けない。文庫と雑誌の束を店名の入っている紙袋に入れて、それをさらにビニールの手提げ袋に入れる。取っ手の部分を広げて渡すと、渡会は「ありがとう」とはにかむように笑った。
「じゃあまたあとで」
 わたしは笑みを返した。渡会は軽く手を振って店を出て行く。入ってきたお客はちらりと一瞬だけわたし達のほうに目を向けたが、特には興味を示さず、すぐに文庫の新刊スペースに張り付いた。しばらくそこにとどまったあと、今度はハードカバーの新刊スペースに足を向ける。外からバイクの走り去る音が聞こえた。
 お客を意識の端で捉えながら、わたしはバニラ・スカイのリメイク元のことを考えていた。ペネロペ・クルスが出演していたことを思い出し、何年か前に流れていたCMが浮かんだ。ペネロペが髪をなびかせているようなやつで、シャンプーだかコンディショナーだかのCMだった憶えがある。CMつながりで、高校生の男女がポッキーを両端から齧っていくワンシーンが浮かぶ。そのシーンの恥ずかしさにわたしは顔を伏せ、ごく軽く口元を綻ばせる。
「……すいません」
 お客がハードカバーを一冊持ってきて、レジに置いた。
「あっ、はい。いらっしゃいませ」
 わたしは慌てて顔を上げ、愛想笑いを浮かべた。ハードカバーの表紙を見ると、それはわたしが好きな作家の最新刊で、目立つ場所に積んでおいたものだ。ちょっとしたいたずらを成功させた気分を噛み締めながらバーコードを読み取る。値段を言って紙カバーを掛けてお金を貰ってお釣りを渡して、
 ――オープンユアアイズ。
 何故かふいに映画のタイトルが浮かんだ。バニラ・スカイのリメイク元の映画タイトル。何をきっかけにしてそれが浮かんできたのかわからない。一瞬、ぴくりと動きが止まるが、すぐに何事もなかったかのように「ありがとうございました」とハードカバーの本を渡した。お客は少し怪訝そうな顔をしながらも会釈し、店を出て行った。
 辺りを見渡す。誰もいない店内は静かで、微かに外の音が入り込んでくる。車の音。飛行機の遠いジェット音。子供の声。水音。蝉。
 落ち着いた気分で目を閉じる。バニラ・スカイとオープンユアアイズとでは、内容の印象がまるで違っていたことを思い出した。
スペース2

 十六歳の少年Aと二十代の会社員と三十代の主婦がネットで知り合い、練炭で自殺を図った。学生の夏休みのはじめころだったから、一年ほど前のことになる。ネット心中というものが流行った時期だったように思う。今でも流行っているのかもしれないけれど、特に調べる気はない。
 わたしがそれをはじめて知ったのは、午後八時五十四分からの短いニュース番組だった。さほど興味のない、しばらくすれば忘れてしまうような情報の一つだった。けれど数日後、少年Aの名前が「渡会」であることを母から知らされた。母はご近所さんとの井戸端会議でそれを知った。少年Aは、渡会笑美の弟だった。
 一人が死んだ。二人生き残った。少年Aは、生き残った側の一人だった。何日か入院して、一旦は家に戻ったが、彼はその一週間後に失踪した。別のネットの知り合いところに身を寄せたのだとうわさで聞いたが、本当のところはわからない。本気での失踪だったらしく、彼は何の手掛かりも残さなかった。未だに行方不明だった。
 いともたやすく渡会の家族はばらけた。蝶結びにされた靴紐でもほどくかのように、簡単に。
 話し合いという名の罵り合いが何度かあったのかもしれない。一ヵ月もしないうちに、渡会の母親は実家に帰った。ほどなく父親もワーカホリックというものに飛び付き、同じように家に戻らなくなった。「父親は愛人の家から会社に通っている」といううわさが立ち、他にも昼メロのような内容のうわさも聞いたことがあった。わたしはそれらに対して嫌悪感を抱きながら無視した。渡会は今もひとり、その家にいる。
 渡会の家は一戸建てで、小さいながらも庭があった。園芸が趣味だという母親が今はいないから、「美しい庭園」ではなかったが、それなりに手入れはされている。庭先に原チャリがぽつんと置かれており、渡会が帰ってきていることがわかる。インターホンを押し、「はい」という渡会の声を聞いてから、自分の名前を告げた。
 しばらくして出てきた渡会は、昼間会ったときとは違う格好だった。帰ってからシャワーでも浴びたのだろう、ノースリーブで、肩にある日焼けの境目が目に鮮やかだった。海に行きたいと思う。日は大分傾いている。長く夏の日差しに晒されている空気が熱い。
「上がって」
 渡会が目とあごでも中に入るように促した。
「おじゃまします」
 玄関先で靴を脱いで適当にそろえた。
「どうぞ」
 渡会は頷いて、玄関のすぐ右手にある階段を上った。わたしも彼女の背中を見ながら続く。流れてくるひんやりとした空気が心地よい。冷房が漏れてきている。二階に上がって、弟の部屋の前を通り過ぎ、渡会の部屋のドアをくぐる。インターホンの音が聞こえにくくなるから、ドアは開けたままにしておく。部屋の真ん中に小さなテーブルが置いてあって、その上にクロスワードの雑誌が広げてある。渡会が向かって左に座り、わたしはその向かいに座った。いつもの場所だ。静かで、落ち着く場所だった。ドアの正面、ちょうど向かい側に窓があって、空気を巡回させるために少しだけ開けてある。薄いグリーンのレースカーテンが微かに揺れている。
「……なんか買ってくればよかった」
 座ってから気づいた。何度も来ているのにたまに忘れてしまう。
「えー、別にいいよ。気を遣わなくていいから」
 渡会は笑って許してくれるから、甘えてしまっているのだろうか。わたしとしては内心平謝りだが、実際にそうすると逆に気を遣わしてしまうので、「悪い」とだけ言って片手で謝った。
 冷やした麦茶がテーブルの端に置いてある。グラスも二つあって、その一つには麦茶が半分ほど入っていて、汗を掻いている。わたしはもう一つのグラスを取り、麦茶を注いだ。渡会とわたししかいない場合、よっぽどのことがない限りはセルフサービスだった。お互い気遣われることに慣れていない。というか、お互い苦手なようだった。
 渡会がシャーペンを片手にクロスワードに向かう。それを見て、わたしは家から持ってきた文庫本を開いた。テーブルに置き、頬杖を突く。渡会がシャーペンを指先で回す。基本的に会話はない。たまに、わたしがどうでもいいような話題を振って、どうでもいいような受け答えをしたり、渡会がクロスワードの答えを聞いて、昼間のときのように脱線したりする。ただ、それもすぐに途切れてしまうような会話だった。
 いつからこんな感じになったのか、憶えていない。けれど、彼女の弟がネット心中を起こす前は、もっと会話を楽しんでいた記憶がある。今はもう、少なくとも渡会とは、以前のようにはできない。でも、わたしはそれを悪くないと思っている。
 いつだったか、渡会と近所のおばさんが道端で立ち話をしているところに出くわしたことがあった。わたしが声を掛けると、渡会はほっとしたような顔になった。おばさんは心配顔を作っていて、わたしに気づくと早口で何かを言い募り、別れ際、渡会に「何でも頼っていいのよ」という意味合いのことを言った。渡会は素直に頷いたが、でもそれは会話を早く終わらせたかったからだろう。一人で暮らしている渡会のことを、近所のおばさんは本気で心配しているのだろうとは思ったが、こういう世話好きのおばさんが一様にうわさ好きであることも事実だ。頼ったりして、そのことを逐一近所にばら撒かれたりするのはたまらないだろう。
 おばさんが立ち去ったあと、渡会は苦笑とため息を漏らし、ぽそりと「どっかに石ころぼうしって売ってないかな」とこぼした。わたしはその一言であっさりと泣きそうになり、こらえて、「そうだね。売ってたらわたしのも買っといて」と暢気な言葉を返した。
 渡会といる空間は静かだった。静かなこの空間が好きだった。静かで、孤独で、誰もいなくて、二人してゆっくりと死んでいくようで、心地よかった。たぶん、人に言うと眉をひそめられるようなことなので、誰にも言わない。言うのが勿体ない気もした。
 時間が流れる。ページを捲る。シャーペンを滑らす。麦茶で喉を鳴らす。テーブルの上にグラスを置く。エアコンのざわついた音。渡会の鼻歌が微かに聴こえる。
 わたしは崩れた頬杖の上でいつの間にか眠っていた。目覚めて顔を上げると、正面の渡会と目が合って、彼女はゆるやかに笑った。わたしはそっと目をそらす。そらした先は窓のほうで、日は沈んでいて、暗くなり掛けの時間だった。
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