長めの話を置いています
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クヅカ1
 じいちゃんの家は広くて、広い庭があって、でかい猫がその縁側で眠りこけていた。庭には柿の木とかビワの木とか、これまたでかい木が五本くらい植えてあって、そこに張り付いた蝉が絶え間なく鳴き続けている。庭の囲いの向こう側に山が見える。濃い緑だ。ここから十分も歩かずにその山のふもとまでたどり着ける。周りには家よりも田んぼや畑のほうが多くて、ビルやマンションとか、三階建て以上の建物はこの辺りでは見かけなかった。じいちゃんの家は母さんの田舎で、ここは田舎らしい田舎だった。
 僕と真由は夏休みで、父さんと母さんもお盆休みで、そんなわけで僕ら一家はじいちゃんの家に遊びに来ていた。夕方と呼ぶよりも少しだけ早い時間、僕は縁側に寝そべって、板張りの冷たさを味わっていた。でかい猫は頭の方向にいる。白猫だから「シロ」と名付けるのは定番で、田舎くさくて、それだけで何となくのんびりした気分になる。奥の部屋から生ぬるい風が吹いてくる。古い扇風機があたたまった空気をかき混ぜていて、蝉がうるさくて、縁側が冷たくて、だから僕はだらだらと眠ったり、うとうとと眠りかけたりしていた。やる気なく「シロ」と呼びかけると、彼もだらだらと一回だけ尻尾を振った。
 みしみしという足音が二人分聞こえて、そのテンポと音の加減でじいちゃんと真由だとわかった。けれど僕は少しばかり面倒くさく思って、眠りかけのぼんやりとした感触に浸ったままでいた。
 じいちゃんは庭に降りて草木に水をやり始めた。真由は僕のそばにぺたんと座って、少しぼーっとして、それから僕の頭をぐりぐり撫でた。僕はだらだらしたまま動かずにいて、真由はしばらく撫でていたけれど、そのうちに飽きて、持ってきたゲームボーイアドバンスをてれてれやった。真由はそれにもまた飽きて、最後にシロの耳とかしっぽとかで遊んだ。シロは迷惑そうにしながらも、ずっと遊ばれてやっていた。よくできた猫だと思う。
 水をまき終えたじいちゃんは、台所に行ってスイカを切って持ってきてくれた。さすがに僕も起き上がって、出されたスイカにかぶりつく。父さんと母さんとばあちゃんは親戚の家に挨拶に行っていて、そのまま今夜の宴会の準備をしているらしい。スイカを食べている間も、真由はシロを撫でたりいじったりしていた。夕方ごろ、宴会の準備ができたという母さんからの電話で、ようやくシロは開放された。


 僕の隣で真由は眠たそうだった。真由はわりと人見知りするほうだから疲れたのかもしれない。窓の外は暗くて、上を向くとちゃんと灯りがあるのが見えるけれど、僕が普段目にしているのとは全然違っていた。車のライトがないとほんの少し先も見えなかった。
 僕と真由は後部座席にいて、じいちゃんが運転して、ばあちゃんがその隣でニコニコしている。じいちゃんもばあちゃんも元から笑ったような顔立ちの人だった。真由はわりとじいちゃんに懐いていて、ときどきばあちゃんが少しだけさみしそうな顔をする。僕はどちらかというとばあちゃんといるほうが居心地よくて、それで何となくバランスが取れているのかなと思う。
 父さんと母さんはまだ親戚の宴会に付き合っている。僕は刺身とか焼肉とか三ツ矢サイダーとかを食べたり飲んだりして、親戚の酒くさいおじさんやおばさんに話しかけられて、「大きなったなぁ」と何度も言われて、真由は人見知りでじいちゃんにべったりで、退屈してたらちょうどいいタイミングでじいちゃんに呼びかけられて、じいちゃんの運転する車で先に帰ることになった。
 じいちゃんの家の前に着いたときには、真由はもう眠り込んでいた。体の力が抜けてぐにゃぐにゃだった。むにゃむにゃいう真由を抱えるように車のドアの近くまで引っ張ってくると、じいちゃんがドアを開けて、真由をひょいと抱き上げた。じいちゃんのにおいとか感触とかを憶えていたのか、真由はゆるい顔になってじいちゃんの首に腕を巻きつけた。かわいい孫にそんなふうにされて、じいちゃんの顔もゆるむ。ばあちゃんは「あらあら」と言いながらも、少しうらやましそうだった。
 真由を布団まで運んだあと、「さすがに疲れた」とじいちゃんは言って、すぐに自分の寝室に引っ込んでしまった。ばあちゃんは居間で自分と僕の分の麦茶を出して、「美味しかったかい?」とか「憶えてた人いる?」とか、そんな何でもないことを聞いた。僕はテレビを見ながら、「うん」とか「あんまり」とか答えた。ばあちゃんも疲れてたらしく、しばらくするとあくびをもらして、「あんまり遅くまで起きてちゃだめよ」と言ってから寝室に向かった。
 昼間寝てたせいか、全然眠たくならなかった。黒くてくっきりとした柱時計に目をやると、まだ九時前。父さんと母さんは、今日は親戚の家に泊まるのかもしれない。九時を過ぎると見たいテレビがなくなった。ドラマとか映画とかばっかで、クイズとかバラエティーとかはやってなかった。ゲームでもやろうかなと立ち上がって、真由と僕の部屋に行こうとしたとき、ふと、居間の入り口の脇に置いてある電話と、その隣にある懐中電灯が目に入った。
 僕は立ち止まって少し考える。もう一度時計を見る。九時十二分。電話をかけてもまだぎりぎり大丈夫な気がした。手書きの電話帳からクヅカを探す。「玖塚」という名前があって、たぶんこれだと思った。一度深呼吸をしてから受話器を上げた。番号を押して、どきどきしながら待った。
「はい、玖塚でございます」
 女の人が出た。クヅカよりもずっと年上の、落ち着いた感じの声だった。たぶん、クヅカのお母さんだ。
「もしもし、中島といいますけども」
 焦って少し早口になっていた。心臓がバクバクいっていた。もっとかっこいい名前だったらな、と、ちらりと思う。それから、クヅカの下の名前を思い出そうとした。確か「ミ」ではじまる……。ミズキじゃなくてミナコじゃなくて……。「えーと」を三回くらい繰り返してからやっと出てきた。
「ミサコさん、いますか?」
 クヅカミサコは僕よりも二つ年上の女の子だ。
「……え……ええ、ちょっと待ってね」
 クヅカのお母さんは一瞬驚いたみたいだった。僕は「はい」と頷いて、流れてくるオルゴールみたいな音楽を聞きながらしばらく待った。九時十六分。
「もしもし、タカヒコくん?」
 九時二十三分を過ぎたころに、ようやくクヅカのゆるゆるとした声が聞こえてきた。
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クヅカ2
 どことなくだるいけれど、眠くはなくて、ぼんやりと天井を見つめていた。天井には人の顔に見える木目がいくつかあって、昔はあんなのが怖くて泣いてしまったり、眠れなくなったりしてた。あらためて見ても、やっぱり少し怖い気はする。でも見慣れたものだから、そのせいで眠れなくなることはもうない。
 部屋のクーラーの温度は16℃に設定してある。普通なら寒いと思うくらいの室温だけど、いまはもう暑さも寒さもさほど気にならない。右手を顔の前に持ってきて、ゆっくりグッパと動かした。その動きに違和感はなくて、「あんまり変わらないのにね」と口の中で呟いた。
 左手には点滴の針が刺さっている。刺すときもあまり痛くはなかった。入ってくる液の感触が変な感じだけど、これはたぶん慣れの問題なのだと思う。
 痛みや、肌の感覚が鈍くて弱い。右手で左腕をつかんでみると、手袋をつけたまま触ったときのような感触だった。やっぱり私は死んでいるのだと確認できてしまって、胸の下の辺りがほのかに重たくなる。泣きたいような、笑い出したいような気分。けれど、どこか他人事のようでもあった。他人の不幸を聞かされたときのような。
 私が死んだのは十日ほど前だった。夏休みで、その日は何の約束もなくて、とても暇だった。暇なとき、私はいつも釣りに出かける。釣りは私の数少ない趣味だった。おっさんくさい趣味だとよく言われる。
 帽子に着古した白シャツに短パン。いつも通りの格好で釣り糸をたれていた。蝉の声と川のせせらぎと空の青と真っ直ぐな日差しと遠くの雲と濃い緑のにおい。土のにおい。大きな岩の上に乗り、あくびをして、持ってきたアイスを食べて、もくもくと釣り糸を投げたり、アタリに合わせたり、えさを付け替えたりしていた。釣れるかどうかはさほど問題じゃなく、私はのんびりとした時間と、たまにある微妙な刺激を楽しんでいたのだと思う。
 合わせたときに足を滑らせて、岩で頭を打って、気絶して、川に落ちて、そしてそのまま流された。途中の流れのゆるいところで、岩に運良く引っかかって、たまたま通りがかった役場の堺さんに川から救い出された。ネクロフィリアの堺さんに唇を奪われて胸を揉まれて……と、それは今私が作ったでたらめで、人工呼吸と心臓マッサージを施されて、私は一旦息を吹き返した。けれど、結局は助からなかった。あとから聞いた話では、堺さんは実際必死にやってくれていたそうで、何だか感激だった。聞いたとき、嬉しくて少しにやけてしまったほど。堺さんが若松武史似の素敵なおじさまだというのはこの際関係なく。
 血筋とか家柄とか、ここら辺りの信仰とかの影響で、死んだはずの私はもう一度生き返った。遺体がさほど損傷してなかったのも良かったらしい。多少驚いたけれど、田舎だし、山奥だし、そんなこともあるのかなと思った。生き返ったとき、目の前にいた両親に正直にそう言うと、「この子は……」と涙ながらに抱きしめられた。そんなふうに抱きしめられたことなんて久しくなかったから、何年かぶりだったから、実のところそれにいちばん驚いた。
 点滴は三分の一ほどになっていた。液を全部消費するまであと十分くらい。少し眠たくなってきていた。
 田舎の怪しい力と、この点滴を含めたいろんな薬のおかげで私は生きている。でも、そう長くは持たないらしい。近いうちに、私はもう一度死ぬことになるのだけれど、あまりその実感はない。
 ステーシーという最近読んだ小説を思い出した。15歳から17歳までの少女達が次々と突然死し、ステーシーといういわゆるゾンビになってしまう。その彼女達を再び殺さなくてはならない。ちゃんと殺すために細かな肉片にしなくてはならない。そんな物語。
 グロくて、いかれてて、哀しくて、でも何か忘れられない話だった。私は14歳で、彼女達になるには一年足りない。彼女達が羨ましいとふと思うこともあるし、単純にいやだなと思うこともある。
 あと五分程度で点滴が終わるというところで、ノックの音が聞こえた。ドアのほうに目を向けると、すぐに母が、「いい?」とためらいがちに顔を覗かせた。中に入ってきた母は室内の寒さに軽くぶるっと身を震わせる。この部屋は私の体を腐らせないための冷蔵庫だった。私は起き上がりながら頷き、「何?」と聞いた。
「……どうしようか迷ったんやけどね」
 母はどうも言いづらそうにしていて、私はもう一度、「何?」と先を促して、口元で笑ってみせる。
「中島さんとこから電話が来たんよ」
「……中島さん?」
 その名前には何となく憶えがあったけれど、眠気のせいかちゃんとは思い出せない。
「ほら、毎年お盆に遊びに来てるあの子。美沙子とよく遊んでた」
「タカヒコくん?」
「そう、そのタカヒコくん。……どうする?」
 母が困り顔で聞く。聞かれても困ると思う。どうしよう。私は本来なら死んでいて、普通なら電話になんて出られるはずがないのに。
「タカヒコくんは知ってるの? 私の……こと」
 私が一度死んでまだ生きていることは一部の人間しか知らない。この土地いる親戚と、近所に住んでいる付き合いの深い人。中島のおじいさんは近所に住んでいる付き合いの深い人だけど、タカヒコくんに私のことを伝えてたりするんだろうか。
「わかれへんけど、知ってる思うよ。中島さん嘘つかれへん人やし、それに、ちゃんと教えたらなかわいそうやと思うような人やから」
 確かに。
「……うん」
「いややったらゆうといたるよ」
「ん、や、出る」
 点滴を見ると、あと二、三分で終わりそうだった。
「これ終わったらいく」
 電話は居間にある。
「……ごめんね」
「ん、ううん」
 最近、何でもすぐに謝ってしまう母に首を振った。
クヅカ3
 九時三十三分。居間の窓から見える外は真っ暗だった。耳から離した受話器から、「ちょっと待って」というクヅカにしてはあわてた声が聞こえたけれど、僕はそのまま電話を切った。電話の横にある懐中電灯を持って、居間を出て玄関に行く。寝室で眠っているじいちゃんとばあちゃんを起こさないようにそろっと歩いた。
 待ち合わせ場所にしたのは、いつもの橋だった。じいちゃんの家から歩いて五分くらいのところに橋はあって、クヅカの家からも同じくらいのところだった。クヅカが釣りに出かけてしまったときは、僕はその橋の下で待つことにしていた。クヅカは大体朝から出かけて、昼過ぎか夕方ごろに帰ってくる。昼に行ってしばらく待って帰ってこなかったら、夕方にもう一度行く。クヅカがどっちに帰ってくるのかはその日の調子しだいで、夕方、僕が川上のほうをぼーっと眺めていると、クヅカもぼーっとした感じで川沿いの道を歩いてきたりする。クヅカは僕を見つけると一瞬びくっとして、それからにっこりと笑う。「遅い」と僕が言うと、「ごめんごめん」とクヅカは謝った。謝ることなんてしてないのに、クヅカはよくそんなふうに謝っていた。
 玄関で靴をはく。指が少し震えていた。右手の懐中電灯を何となく見つめる。クヅカとあの橋で会う。会う時間が夜ってだけなのに、どうしてだか心臓がいつもより早く鳴っていた。少しだけ怖い気もしたけれど、どこかわくわくもしていた。夜中に出かけるのはしちゃいけないことで、しちゃいけないことってのは楽しいことだったりするのだ。
 玄関の鍵を開けようと手を伸ばしたところで、寝室のふすまが開く音がした。僕は思わずびくっと固まった。
「……タカヒコ、どないした?」
 すぐにじいちゃんの眠そうな声が聞こえた。まずい、と僕は振り返りながら背中に懐中電灯を隠した。寝室から出てきたじいちゃんは、眠そうに眉間にしわを寄せながらあくびをする。僕が黙っていると、じいちゃんは「どうした?」とまた聞いた。
「ん……、なんでもない」
 どきどきしながら僕は口の中で言った。
「なんでもないて……、タカヒコ、靴はいて……」
 じいちゃんはふと黙って、僕をじっと見つめた。あごに手を当てて、思いついたように僕の背中を覗き込もうとする。僕は懐中電灯を見られないように体をよじった。言い訳を考えようとしたけれど、何にも思いつかずに、結局僕は「なんでもない」とさっきよりも大きな声で言い張った。懐中電灯を握る手が汗でべとついていた。
 じいちゃんは僕の背中を覗き込もうとするのをやめて、ふん、と鼻を鳴らしてから口の端でニヤッと笑った。そんな笑い方をするじいちゃんを見るのははじめてで、少し怖くて、でも何となくかっこいい感じだった。
「玖塚さんとこ行くんか?」
 じいちゃんが確かめるように聞いた。僕は目をそらして、少し迷ったけれど、「ん」と小さく頷いた。
「そうか……」
 じいちゃんは呟くと、「ちょっと待っとき」と言って、奥の部屋に入っていった。僕は知らんぷりして出てしまおうかと一瞬思ったけれど、それよりもじいちゃんが何しに奥の部屋に行ったのか気になった。しばらくして戻ってきたじいちゃんは、取っ手のついた赤い何かを持っていた。
「ほれ」
 そう言って渡してきた赤いそれは、懐中電灯だった。僕が電話の横から持ってきたのよりも二回りくらい大きい。交換するように僕は小さいほうの懐中電灯をじいちゃんに渡した。
「気ぃつけてな。あんまり遅なんなや」
 じいちゃんは小さいほうの懐中電灯を受け取ると、その反対の手で僕の頭をぐりぐりと撫でた。
「いいの?」
 僕は顔を上げて聞いた。
「ん? やめとくか?」
「いや、行く」
「……そうやな」
 じいちゃんは頷いて、笑って、「気ぃつけてな」ともう一度言った。
クヅカ4
 ひとつ息を吐いた。ごぼりと空気のかたまりがゆっくりと昇っていき、いくつもの小さな粒がそれに続いた。見上げた空には水面があって、夏の真っ直ぐな日差しを切り取り、ゆがめている。形を変えられ細切れにされた光の群れはとてもきれいなのだけれど、ずっと見つめていると何故だかひどく不安になった。
 光は砂を白く照らし、小さな波の影がそれに映った。砂の床は水の底で、流れる水に合わせて砂はゆるやかに動く。砂が膝や足の指をくすぐる。揺れる水面が光を弄ぶ。左手を伸ばして平泳ぎをするように水をかくと、今までの流れが乱れ、水と水面がまた細かく揺れる。砂の動きが変わる。
 また、ごぼりと空気が昇っていく。見知らぬ誰かが仰向けに寝転がっている。それらは見渡す限りに幾人もいて、ただ静かに空気を吐いている。五人、十人、二十人、四十人、八十人……、ごぼりごぼりと口から次々と空気のかたまりを吐いている。かたまりは水を昇りながら形を変える。水に丸まり、伸ばされ、ゆがめられる。それでもかたまりは水面を目指して昇り続ける。
 空気をすべて吐き終えた者から砂になっていく。人の形をした砂が、揺れて流れる水に少しずつ溶けていき、やがて平らになる。人型の砂はやがてただの砂になる。
 砂になるのがいやなのであれば、空気を吐き終える前に砂の床を蹴り、水面の上に顔を出せばよい。水面の上で空気を得て、また水の底に戻ってもよいし、あるいはまたどこか別の場所を目指してもよい。
 体を後ろに倒して仰向けになり、細切れの光を見つめながら、ごぼりとまたひとつ息を吐いた。ゆっくりと昇っていくかたまりを見つめているうちに、ふと気まぐれを起こし、立ち上がり、そっと砂の床を蹴った。体が砂から離れ、水面が近づく。
 何故そんな気まぐれを起こしたのか、わからない。自分の中のどこにもその答えはなかった。
クヅカ5
 十時を少し過ぎていた。部屋は暗闇で、目を凝らしてようやく物の輪郭が見えてくる。網戸の入った窓。二組の敷き布団とタオルケット。片方の布団にはちびっこい女の子が眠っていて、昨日の夜はその隣に彼女の兄もいたのだけれど、今この部屋には彼女しかいない。
 スースーと彼女は静かな寝息を立てている。風に乗って微かな虫の音が紛れ込んできている。彼女は無意識にそれを聞き、自分の眠りを深くする。彼女にかけられていたはずのタオルケットが、その腕の中で乱暴に丸められ、本来の役割を果たせずにいる。ときどき彼女は「んー」と暑そうに唸り、タオルケットを引き連れて何度か寝返りを打っているが、窓から入ってくる網戸越しの風がそれなりに涼しく、多少の蒸し暑さを感じながらも安らかな眠りというものを得ているように見えた。
 庭先では真っ白な猫が低い姿勢を取っている。彼はシロと呼ばれていた。そろりと地面に四本の足を置き、二メートルほど先の獲物を狙っている。獲物であるヤモリはシロから見て横を向いており、まだ自分を狙うものの存在に気づいていないようだった。少なくともシロ自身はそう感じているだろう。シロはじわじわ距離を詰め、同時に気持ちを高めている。密やかなその一歩は二十センチほどだろうか。虫の音と風がよい具合にシロの気配を消している。慎重に五歩進んだところで、シロはひと呼吸置き、その場で体重移動させ、タッと踏み込むと同時に獲物に飛びかかった。
 その存在に気づいていなかったはずのヤモリは、しかし待ち構えていたかのように素早く移動し、シロの爪から数センチの差で逃れた。ザクリとシロの爪が地面だけを捕らえる。シロはさらに追撃をかけたが、それもまたヤモリの動きのほうが一瞬早かった。
 ニャウ! とシロの短い鳴き声が響いた。悔しそうな声に聞こえたのは気のせいだろうか。そんな静かで激しい攻防に気圧されるように、虫の音はいつの間にかやんでいた。
 部屋でも寝息の音が途切れていた。「うーん」という唸り声、その声を発した彼女は寝返りを打ち、うつ伏せになった。うっすらと目を開けて、しかしすぐに閉じる。もそもそと膝を曲げ、うずくまるような格好でしばらくとまった。また虫の音が聞こえてくる。彼女はタオルケットを抱きしめている。やがてそのタオルケットに向かってまた「うー」と唸ったあと、体を起こし、のろのろと立ち上がった。
「……おしっこ」
 誰のともなく呟いて部屋の入り口のほうに進む。その足取りはなかなかに不確かで、もし彼女の兄が隣に眠っていたなら、確実にその足や腹を踏みつけていただろう。彼女はふすまを開けようとして手を伸ばし、しかし距離感を間違えて二回空振った。
 用を足したあとのすすいだ手を腰のところでごしごし拭いた。ふわあ、と大きなあくびをもらし、それから部屋に戻ろうとして、彼女はふと居間の電気が点いていることに気づいた。明かりに引き寄せられる羽虫のように、彼女はそこに向かった。
 居間には彼女の祖父がいて、テーブルの前で懐中電灯を弄っていた。懐中電灯を点け、消し、放り投げ、自分で受け取る。
「おにいちゃんは?」
 彼女がそう声をかけると、祖父は驚いて動きを止めた。自分の孫娘をその目で確かめると、「驚いたわ」と、ほっと息をつきながら笑った。
「うん」
 彼女も小さく笑う。
「タカヒコは……、まあちょっとな。心配せんと寝とき。疲れたやろ」
 彼女は少し迷ったあと、躊躇いがちに「うん」と頷いた。兄のことが気になる様子だったが、それよりも眠気のほうが勝ったらしく、祖父に半分眠った声で「おやすみ」と告げると、ふらふらとした足取りでまた部屋に戻った。
 中に入りふすまを閉めると部屋は暗闇になる。彼女は昔から夜目が利くほうで、そのせいか暗闇を恐れなかった。二組の敷き布団とタオルケット。片方のタオルケットは乱れ、布団の端に追いやられている。彼女は全く迷わずに乱れていないほうのタオルケットに潜り込んだ。まだ人の体温を吸っていない布団が心地よいらしく、彼女は薄く微笑むと、すぐに安らかな寝息を立てはじめた。
 深い眠りに入る前に少し不思議な夢を見る。それは水と砂の、やけに涼しげな夢だった。
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