長めの話を置いています
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スペース1
 商店街の本屋にしてはわりと大きいほうだと思う。家族でやっていて、今現在、無職家事手伝いのわたしが店番をやらされている。二時半という中途半端な時間なので、店内のお客は三人ほど、車の雑誌を立ち読みしている眼鏡を掛けたサラリーマンと、漫画の棚を眺めているタイトスカートのOL、それから、パズル系の雑誌を物色中の渡会笑美がいる。
 渡会は中学校のときからの友人で、当時はそれなりに目を引くような真っ白な肌をした大人しい感じの少女だったけれど、中学を卒業して五年後の夏の日差しが、その肌を小麦色に焼いていて、彼女の印象を活発で健康的なものに変えている。小麦色は海で焼いてきたとかそういうことではなく、いわゆる土方焼けで、首から上と腕の部分だけが染まっている。彼女はガソリンスタンドで働いており、日祝よりも平日のほうが休みであることが多く、たまにこういう中途半端な時間、この店に顔を出すことがあった。
 眼鏡サラリーマンは何も買わずにほどなく立ち去り、その少しあとにタイトスカートのOLがBECKの最新刊を嬉しそうな顔をしながら買っていった。渡会はのんびりてれてれと店内を徘徊し、そのうちにクロスワードとナンバープレイスというパズル系の雑誌と、文庫本三冊を抱えてくる。レジに置いた。
「去年のM-1グランプリで準優勝したお笑いの人って、わかる?」
 渡会が唐突に聞いた。
「何文字? ……わたし、あんまりお笑い詳しくないよ」
「四文字。えっと、何とかキャンディーズ」
「南海キャンディーズ?」
 セクシィなしずちゃんがけっこう好きだ。
「あ、知ってるじゃん。……ありがと」
 お客がいなくなったのをいいことに、まだレジを通してない雑誌を広げ、二人してクロスワードを解いていく。渡会は映画ネタに明るく、わたしは小説や漫画ネタに強い。一応ながらもわたしは本屋の娘であるようだった。
「バニラ……スカイ」
 渡会がタテ8の答えを呟く。
「それの元ネタ……ていうかリメイクの……元になった映画って何だったっけ?」
 わたしの疑問に彼女は顔を上げる。
「ん? ええと、あれでしょ、うん。トム・クルーズじゃないほうの」
「そうそれ。何だっけ?」
「うーん。……言われたらわかるんだけど」
「スペインかどっかの」
「そう。……うーん、ここまで出てきてるんだけど」
 いい感じに話が脱線してきたところでお客が来て、わたしと渡会は自然と口をつぐんだ。クロスワードの雑誌を閉じ、裏表紙のバーコードを読み取る。続けてナンバープライス、文庫本とレジを通していく。値段を言ってお金を貰ってお釣りを渡してから、わたしはそっと彼女に顔を寄せた。小声で言う。
「今日、休み?」
「うん」
「あとで行く」
「オッケー」
 いつも通りカバーは掛けない。文庫と雑誌の束を店名の入っている紙袋に入れて、それをさらにビニールの手提げ袋に入れる。取っ手の部分を広げて渡すと、渡会は「ありがとう」とはにかむように笑った。
「じゃあまたあとで」
 わたしは笑みを返した。渡会は軽く手を振って店を出て行く。入ってきたお客はちらりと一瞬だけわたし達のほうに目を向けたが、特には興味を示さず、すぐに文庫の新刊スペースに張り付いた。しばらくそこにとどまったあと、今度はハードカバーの新刊スペースに足を向ける。外からバイクの走り去る音が聞こえた。
 お客を意識の端で捉えながら、わたしはバニラ・スカイのリメイク元のことを考えていた。ペネロペ・クルスが出演していたことを思い出し、何年か前に流れていたCMが浮かんだ。ペネロペが髪をなびかせているようなやつで、シャンプーだかコンディショナーだかのCMだった憶えがある。CMつながりで、高校生の男女がポッキーを両端から齧っていくワンシーンが浮かぶ。そのシーンの恥ずかしさにわたしは顔を伏せ、ごく軽く口元を綻ばせる。
「……すいません」
 お客がハードカバーを一冊持ってきて、レジに置いた。
「あっ、はい。いらっしゃいませ」
 わたしは慌てて顔を上げ、愛想笑いを浮かべた。ハードカバーの表紙を見ると、それはわたしが好きな作家の最新刊で、目立つ場所に積んでおいたものだ。ちょっとしたいたずらを成功させた気分を噛み締めながらバーコードを読み取る。値段を言って紙カバーを掛けてお金を貰ってお釣りを渡して、
 ――オープンユアアイズ。
 何故かふいに映画のタイトルが浮かんだ。バニラ・スカイのリメイク元の映画タイトル。何をきっかけにしてそれが浮かんできたのかわからない。一瞬、ぴくりと動きが止まるが、すぐに何事もなかったかのように「ありがとうございました」とハードカバーの本を渡した。お客は少し怪訝そうな顔をしながらも会釈し、店を出て行った。
 辺りを見渡す。誰もいない店内は静かで、微かに外の音が入り込んでくる。車の音。飛行機の遠いジェット音。子供の声。水音。蝉。
 落ち着いた気分で目を閉じる。バニラ・スカイとオープンユアアイズとでは、内容の印象がまるで違っていたことを思い出した。
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スペース2

 十六歳の少年Aと二十代の会社員と三十代の主婦がネットで知り合い、練炭で自殺を図った。学生の夏休みのはじめころだったから、一年ほど前のことになる。ネット心中というものが流行った時期だったように思う。今でも流行っているのかもしれないけれど、特に調べる気はない。
 わたしがそれをはじめて知ったのは、午後八時五十四分からの短いニュース番組だった。さほど興味のない、しばらくすれば忘れてしまうような情報の一つだった。けれど数日後、少年Aの名前が「渡会」であることを母から知らされた。母はご近所さんとの井戸端会議でそれを知った。少年Aは、渡会笑美の弟だった。
 一人が死んだ。二人生き残った。少年Aは、生き残った側の一人だった。何日か入院して、一旦は家に戻ったが、彼はその一週間後に失踪した。別のネットの知り合いところに身を寄せたのだとうわさで聞いたが、本当のところはわからない。本気での失踪だったらしく、彼は何の手掛かりも残さなかった。未だに行方不明だった。
 いともたやすく渡会の家族はばらけた。蝶結びにされた靴紐でもほどくかのように、簡単に。
 話し合いという名の罵り合いが何度かあったのかもしれない。一ヵ月もしないうちに、渡会の母親は実家に帰った。ほどなく父親もワーカホリックというものに飛び付き、同じように家に戻らなくなった。「父親は愛人の家から会社に通っている」といううわさが立ち、他にも昼メロのような内容のうわさも聞いたことがあった。わたしはそれらに対して嫌悪感を抱きながら無視した。渡会は今もひとり、その家にいる。
 渡会の家は一戸建てで、小さいながらも庭があった。園芸が趣味だという母親が今はいないから、「美しい庭園」ではなかったが、それなりに手入れはされている。庭先に原チャリがぽつんと置かれており、渡会が帰ってきていることがわかる。インターホンを押し、「はい」という渡会の声を聞いてから、自分の名前を告げた。
 しばらくして出てきた渡会は、昼間会ったときとは違う格好だった。帰ってからシャワーでも浴びたのだろう、ノースリーブで、肩にある日焼けの境目が目に鮮やかだった。海に行きたいと思う。日は大分傾いている。長く夏の日差しに晒されている空気が熱い。
「上がって」
 渡会が目とあごでも中に入るように促した。
「おじゃまします」
 玄関先で靴を脱いで適当にそろえた。
「どうぞ」
 渡会は頷いて、玄関のすぐ右手にある階段を上った。わたしも彼女の背中を見ながら続く。流れてくるひんやりとした空気が心地よい。冷房が漏れてきている。二階に上がって、弟の部屋の前を通り過ぎ、渡会の部屋のドアをくぐる。インターホンの音が聞こえにくくなるから、ドアは開けたままにしておく。部屋の真ん中に小さなテーブルが置いてあって、その上にクロスワードの雑誌が広げてある。渡会が向かって左に座り、わたしはその向かいに座った。いつもの場所だ。静かで、落ち着く場所だった。ドアの正面、ちょうど向かい側に窓があって、空気を巡回させるために少しだけ開けてある。薄いグリーンのレースカーテンが微かに揺れている。
「……なんか買ってくればよかった」
 座ってから気づいた。何度も来ているのにたまに忘れてしまう。
「えー、別にいいよ。気を遣わなくていいから」
 渡会は笑って許してくれるから、甘えてしまっているのだろうか。わたしとしては内心平謝りだが、実際にそうすると逆に気を遣わしてしまうので、「悪い」とだけ言って片手で謝った。
 冷やした麦茶がテーブルの端に置いてある。グラスも二つあって、その一つには麦茶が半分ほど入っていて、汗を掻いている。わたしはもう一つのグラスを取り、麦茶を注いだ。渡会とわたししかいない場合、よっぽどのことがない限りはセルフサービスだった。お互い気遣われることに慣れていない。というか、お互い苦手なようだった。
 渡会がシャーペンを片手にクロスワードに向かう。それを見て、わたしは家から持ってきた文庫本を開いた。テーブルに置き、頬杖を突く。渡会がシャーペンを指先で回す。基本的に会話はない。たまに、わたしがどうでもいいような話題を振って、どうでもいいような受け答えをしたり、渡会がクロスワードの答えを聞いて、昼間のときのように脱線したりする。ただ、それもすぐに途切れてしまうような会話だった。
 いつからこんな感じになったのか、憶えていない。けれど、彼女の弟がネット心中を起こす前は、もっと会話を楽しんでいた記憶がある。今はもう、少なくとも渡会とは、以前のようにはできない。でも、わたしはそれを悪くないと思っている。
 いつだったか、渡会と近所のおばさんが道端で立ち話をしているところに出くわしたことがあった。わたしが声を掛けると、渡会はほっとしたような顔になった。おばさんは心配顔を作っていて、わたしに気づくと早口で何かを言い募り、別れ際、渡会に「何でも頼っていいのよ」という意味合いのことを言った。渡会は素直に頷いたが、でもそれは会話を早く終わらせたかったからだろう。一人で暮らしている渡会のことを、近所のおばさんは本気で心配しているのだろうとは思ったが、こういう世話好きのおばさんが一様にうわさ好きであることも事実だ。頼ったりして、そのことを逐一近所にばら撒かれたりするのはたまらないだろう。
 おばさんが立ち去ったあと、渡会は苦笑とため息を漏らし、ぽそりと「どっかに石ころぼうしって売ってないかな」とこぼした。わたしはその一言であっさりと泣きそうになり、こらえて、「そうだね。売ってたらわたしのも買っといて」と暢気な言葉を返した。
 渡会といる空間は静かだった。静かなこの空間が好きだった。静かで、孤独で、誰もいなくて、二人してゆっくりと死んでいくようで、心地よかった。たぶん、人に言うと眉をひそめられるようなことなので、誰にも言わない。言うのが勿体ない気もした。
 時間が流れる。ページを捲る。シャーペンを滑らす。麦茶で喉を鳴らす。テーブルの上にグラスを置く。エアコンのざわついた音。渡会の鼻歌が微かに聴こえる。
 わたしは崩れた頬杖の上でいつの間にか眠っていた。目覚めて顔を上げると、正面の渡会と目が合って、彼女はゆるやかに笑った。わたしはそっと目をそらす。そらした先は窓のほうで、日は沈んでいて、暗くなり掛けの時間だった。
スペース3
「ご飯、食べてく?」
 渡会がシャーペンの先でヨコの18を突付きながら聞いた。
「よければ。……それ、矢田亜希子。ヨコの18」
「ん、オッケー。サンキュ」
 渡会は升目にヤダアキコと書いて、立ち上がった。
「手伝うこと、ある?」
「んー……、特にないかな」
「そう?」
「うん。じゃあちょっと待ってて」
「手伝うことあったら言って」
「うん」
 渡会は部屋を出る。ほどなくして階段を下りる音が聞こえてくる。渡会の家に来たときは、大抵晩御飯を一緒に食べる。渡会が料理するときもあれば、わたしが材料を買ってきて作るときもあった。あまり二人で台所に立つことはしない。それは、見られていると何となく落ち着かない気分になるからで、確認はしてないけれど、渡会もそうなのだろうと勝手に思っている。
 立ち上がって窓際に向かう。少しだけ開けてある窓に指を引っ掛けてカラカラと開けた。カーテンが揺れる。生ぬるい風。窓から地面を見下ろす。埃っぽい乾いたアスファルト。中途半端な時間だからか、誰も通らない。誰もいない。わたしはポケットから携帯を取り出し、自宅に掛けた。電話に出た母に、夕飯は渡会のところで食べるので自分のは作らなくていい、と告げる。母は頷いたあと、「あんまり迷惑掛けちゃだめよ」とだけ言った。何度も交わしてきたやりとりだ。
 普段は口うるさい母だけど、わたしの友人関係については昔から口出しをしてこなかった。興味がないのか、それとも口出しすべきでないと考えているのか。母は今の渡会の状況も知っているはずだけれど、詮索してくることもなく、そのことは何気に嬉しく感じていた。もしかしたらわたしは親に恵まれているのかもしれないとふと思い、苦笑のようなものが浮かんだ。渡会に対して申し訳ないような、でもそう思うのも何となく嫌な気がして、自分でもよくわからないもやもやとした気分になる。渡会は自分の親のことをどう思っているのだろう。もし自分だったらと想像し掛け、苦いものを感じて、やめた。
 ついでにメールチェックをすると二件入っていて、どちらも雑談メールだった。すぐに返信しなくてはいけないようなものでもなかったので、また暇なときにでも返すことにして、携帯を折り畳みポケットに仕舞った。
 渡会が仕事を辞めたことを知ったのも、友人からのメールだった。ガソリンスタンドで働き出す前のことで、彼女はアクセサリーか何かの店で売り子をしていた。彼女の弟のことを知り心配になったという子が、ある日覗いてみたらもう辞めていたそうだ。また聞きの話で、情報元になった子は、渡会とはそんなに親しくなかったはずだ。
 興味本位を心配にすり替える人間がいる。少なくないだろう。全部を否定するわけではないけれど、「心配して」という人達の幾人かが、渡会が仕事を辞める原因の一つになったのは確かなことだと思う。渡会は携帯電話を持たなくなった。
 わたしはそうじゃないと、興味本位を心配にすり替える人間じゃないと、そう言い切れないのがたまらなく嫌だった。覗きに行った子にも悪気があったわけではないのだと思う。わたしは積極的にそうしようとは思わないけれど、もし相手が渡会じゃなくあまり知らない人で、誰かに誘われたりしたのなら、軽い罪悪感を抱きながらもそれに付き合っていたんじゃないだろうか。
 苦い思いを、ため息として吐き出した。
「できたよー。下りてきて」
 階段の下から渡会の呼ぶ声が聞こえた。明るいお気楽な声。エプロン姿でおたま片手に階段下から二階を見上げる渡会の姿を何となく想像した。勝手に想像した漫画のような一コマに、つい口元がゆるむ。わたしは自分の頬を軽くはたき、憂鬱な気分を払いのける。「あいよ」と返事して、カラカラと窓を元の位置に戻してから部屋を出た。
スペース4
 渡会の弟の部屋の前を通り過ぎて階段を下りる。食器がぶつかり合うカチャカチャという軽い音が一階から聞こえてくる。階段を下りるわたしの足音。この家にはわたしと渡会しかいないということをふいに意識して、つい切ないような気分になる。一階に下りてからリビングに向かう。
 リビングのテーブルにはパスタの入った深皿と、レタスとキュウリとタマネギとリンゴを適当に切ってマヨネーズで適当に混ぜ合わせたサラダと、グラスが二つとビールとチューハイが乗っていた。
「具、何?」
 海老とタマネギはわかる。醤油のにおいがする。
「海老と蛸としめじ。炒めて醤油とお酒で味付け」
「蛸?」
「うん。蛸からいいダシが出る」
「ふーん」
「蛸、すごい水出るから」
「へえ」
 向かい合うようにテーブルについて、わたしはグラスにチューハイを注いだ。渡会はビールだった。わたしも彼女もそれほど酒に強くはないけれど、あったらあったで飲むほうだ。
「乾杯」
「乾杯」
 グラスを持ち上げ、カツンと軽く合わせた。喉を鳴らす。
「いただきます」
「どうぞ。……いただきます」
 手を合わせてから、度会作の和風海鮮パスタにその手を伸ばした。フォークをくるくると扱い、適当に巻きつけた麺を少し冷ましてから食べる。
「……あ、けっこういける」
「……ん」
 渡会は嬉しそうに微笑んだ。彼女も麺を巻きつけて冷ましたあと、口の中に入れる。「あつつっ」と呟いて、慌ててビールに口をつける。パスタの麺はよく冷ましたつもりでもけっこう熱かったりする。わたしが口元で笑うと、渡会は照れくさそうにしながらまたグラスを傾けた。白を基調にした清潔感のあるリビングが目に優しい。その代わりに、少しさみしくも感じる。気が向いたらテレビを点ける。今日はたまたま点けていない。
 渡会の母親は自分の実家に戻るとき、娘も一緒に連れて行こうとした。けれど、娘の渡会笑美は、それに首を振った。理由は、父親を一人残してしまうのが何だか心配だったから。それと、弟が戻ってきたとき、親よりも姉弟がいたほうが話をしやすいだろうと思ったから。去年の夏の終わり、酔っ払った渡会本人から聞いた話。その結果、渡会はひとり取り残された。
 渡会はグラスに二杯目のビールを注いだ。わたしも二杯目のチューハイを注ぎながら、渡会の顔をちらりと横目で眺める。うまくいった料理とアルコールとで、渡会はとても機嫌のよさそうな笑みを浮かべている。わたしはグラスのチューハイを一気に半分くらい飲んだ。
 ふう、と息を吐く。見捨ててしまえばいいのに、とわたしは心の中で呟く。他の家族が手放してしまったものを、渡会が一人で留めている。いちばん気にしなくていいはずの人間が、いちばん囚われている。囚われるべきは、渡会笑美以外の家族なのに。
 けれど、と思う。けれど渡会が見捨ててしまったら、この家は終わってしまうだろう。この場所に「渡会」という家族がいた、その痕跡がなくなってしまう。想像しかできないけれど、それはおそろしく悲しいことなのだと思う。最後に残って、最後に見捨てる人間が、最もつらい思いをする。それはある種当然のことなのだろうけど、やり場のない怒りと苛立ちを覚える。
「……ん?」
 渡会がわたしを見ながら小首を傾げていた。渡会の顔をじっと見つめていたことに気づいて、わたしは軽く笑って、「何でもない」と首を振った。
 わたしは目を細めて、インターホンが鳴るところを想像する。渡会は首を傾げながら立ち上がり、インターホンの受話器を上げ、何かを話してから玄関に向かう。そこにいたのは渡会の家族の誰かで、その誰かはすまなそうに顔を伏せている。そして、渡会と幾つか言葉を交わしたあと、気まずそうに謝る。渡会は少し戸惑いながら、でも嬉しそうに首を振る――。
 そんなくだらない人情ドラマのようなシーンを想像した。そんな安っぽい感動的な展開を、わたしはどこかで望んでいた。
スペース5
 人がいないのをいいことに、レジの中で就職情報誌を開いていた。ペラペラとめくって、三十ページほど目を通したところで、一息ついて顔を上げる。すると、すぐにタイミングよくお客が一人入ってくる。
 お客はまず文庫の新刊スペースに張り付き、そのあとハードカバーの新刊スペースに足を向けた。その行動パターンと背格好で、この前ハードカバーを買っていった人だと気づく。確か五日前。ちらりと時計を見ると、この前と大体同じ時間だった。渡会と最後に会ったのも五日前。渡会はこの五日でさらに日焼けしているのだろうなと思う。このお客は一体何の仕事をしているのだろうと、さほど意味のないことをたらたらと考えた。
 お客はハードカバーを手に取り、パラパラとめくり、値段を確かめてまた棚に戻すということを何度か繰り返している。わたしはその人を意識しながら、就職情報誌にまた目を落とした。
 店内は冷房が効いているけれど、レジの中はじんわりとぬるかった。連日の晴天。二時過ぎの陽は少し傾いていて、ちょうどレジ裏の壁が直射日光に晒されている。あと一時間ほどはこの中途半端な気温のままだ。欠伸が漏れそうになり、口を手で覆いながらかみ殺した。
 就職情報誌を閉じて、見るともなしに店内を見渡した。平日の昼間だとしても、もう少しお客の姿があったほうがいいんじゃないだろうか。冷やかしのお客でもいいから。と、勝手にそんな心配をする。ここの経営者である父と話してみようかなと一瞬思うが、その前に自分の就職先を見つけるほうが先だと言われそうな気がしたので黙っておくことにした。
 実際に欠伸が漏れてしまい、慌ててその口を手で押さえた。ちょうどそのとき、バイクの止まる音が聞こえた。渡会かなと思い、何となく入り口のほうに目を遣ると、すぐにその渡会がひょっこりと顔を覗かせた。目が合って、彼女は一瞬びくりとした。わたしは思わず、チッチッと舌を鳴らしたくなった。近所の野良猫にするみたく。
 渡会は口元で笑い、今日は真っ直ぐにすたすたと私のところに来て立ち止まった。近くなった渡会の笑みは、少しこわばっているように見えた。
「引っ越す」
 渡会は唐突に言った。
「うん」
 わたしは反射的に頷いた。言葉の意味を理解するための二、三秒。そのあと、「引っ越すの?」と、かなり頭の悪い発言をした。
「うん、引っ越す」
「そっか……」
「一年待ったし」
「……うん」
「もういいかなって」
「うん」
「一人くらい戻ってくるかなって……思ったんだけどね」
 明るい声。薄く苦い笑み。少しだけ悲しそうな目。
「うん」
「そんなにうまくいかなかったよ」
「……うん」
 頷くことしかできなかった。わたしは渡会の小麦色の肌を見つめる。五日分、また焼けている気がする。元々彼女は真っ白な肌をした線の細い少女だった。けれど、この健康的な肌の色なら、そのイメージは払拭できる。近所のおばさんに心配顔はされない。されにくい。遊びに行って焼けたのなら、いらぬ陰口を叩かれるかもしれないけれど、彼女はガソリンスタンドで働いていて、そのせいで日焼けした。
 心配顔をされないために彼女はガソリンスタンドという職場を選んだんじゃないだろうか。勝手な想像だけど、それほど事実と掛け離れているとは思わない。
 渡会の移動手段は原付バイクで、それを呼び止めてまで世間話をするうわさ好きのおばさんや同級生は少ないだろう。走るバイクを呼び止めてまで、心配しようとする人間なんて想像できない。他人からの「心配」を避けるために、渡会はガソリンスタンドで働き、原チャリで通勤していたんだろうと勝手な想像もする。
 そんなふうに、渡会は待っていたんじゃないだろうか。たぶん、一年間だけ待つことに決めていたんじゃないだろうか。
「でも、そんなに悪くなかったよ」
「……そう」
 わたしは少し目を伏せる。渡会は少し上を向いて、一度深呼吸をしてからわたしの顔を見つめる。
「それから、ありがと」
「……ん?」
 顔を上げて首を傾げるわたしに、渡会は照れくさそうに笑った。
「あんたがいてくれなかったら、きっと、きつかった」
「そう?」
「うん。……つらかった、と思う。ありがと」
「……お礼なんて」
 声が湿った。バカみたいにあっさりと涙ぐまされた。やばい、と思って慌てて顔を伏せた。にじんだ目の端に、渡会のにんまりとした顔が映る。
「泣いた?」
「別に……泣いてなんか……」
 渡会の手が、子供をあやすようにわたしの頭を軽くポンポンと叩く。その手の感触が柔らかくて、本当に涙がこぼれそうになった。
「泣かしてやろうって思ったんだけどね。……でもほんとに泣かしちゃうと、どうしていいのかわからなくなっちゃうね」
「何それ……、むかつく……」
 言い返したその声は、わたし自身の耳にも涙声として届いた。
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