長めの話を置いています
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ピース
 エレベーターを通り過ぎ、いつもの習慣で郵便受けを開ける。入っているのはダイレクトメールや風俗系のチラシ、たまにガスや水道の料金請求書。いつも同じようなものだったが、今日は細長い封筒が一通、混じっていた。
 紙の束を適当にコンビニ袋に入れ、少し首を傾げながらエレベーターまで戻った。エレベーターは最初から一階にいたようで、上ボタンを押すとすぐにドアが開いた。乗り込んで今度は六階を押した。しばらくするとドアが閉まり、確実に一人になった僕は、さっきの封筒を取り出した。
 封筒の宛名にはちゃんと僕の名前が書いてあった。住所は一度書いたものを訂正してあり、実家の誰かが転送してくれたらしい。封は開けられていない。表にも裏にも差出人の名前は書いていなかった。
 誰からだろうとぼんやりと考えているうちに、エレベーターが六階に着いた。箱から降り、自分の部屋に行く。いつもよりいくらか急いで歩いた自分に軽く苦笑を浮かべた。
 部屋の隅に鞄を落とし、冷蔵庫からヱビスを取り出した。テレビを点けると蟹江敬三が渋い声を出していた。とりあえず座って、ヱビスを飲みながら買ってきたツマミを開ける。橋爪功と蟹江敬三の声をBGMに、さっきの封筒もぺリペリと開けた。中には三つ折りの手紙と、写真が一枚、入っていた。
 何故だか名取裕子を想像していた。当然のことで、写真に写っていたのは名取裕子ではなかった。同世代の女性、二十代後半。真っ直ぐな笑顔をカメラに向け、恥ずかしげもなく思いっきりピースをしている。何となく見覚えがあるような気がした。「誰だろう?」と記憶を探りながら、今度は手紙を広げた。
 ――わりと写真うつりがよかったので送ってみます。
 そんな書き出しだった。下に女性の名が記してあり、考えもなく、その名前を口の中で転がしていた。舌が憶えている感じだった。呼んだことがある。いつだろう? いつ呼んでいたのだろう? 結構昔だった気がする。前の勤め先、大学、高校、中学……と記憶を巡らせていると、ふいに幼い笑みが浮かんだ。「にへへ」という勝ち誇った笑み。「ああ」と、彼女の名前と笑顔が頭の中で繋がった。
 中学のときの同級生だった。そのときはろくに口を利かなかったのだが、別々の高校に進んでから、ちょっとしたきっかけで話すようになった。少し変わった種類の知り合いだ。けれどもう十年近くも会っていない。住所は卒業アルバムなどで調べたのだろうか。年賀状のやり取りもしていなかったはずで、僕は彼女の住所も電話番号も知らない。いろいろな不可解さと、しかし懐かしさもあり、僕はもう一度写真に目を落とした。
 ピースサインで満面の笑み。それから病院のベッド。
 彼女は薄いブルーのパジャマを着ていた。やけに白い包帯が、頭と腕に巻きついていた。


 白かった。
 蛍光灯が真上にあって、わたしは自然と目を細めていた。見覚えがなかった。自分の部屋の天井とは違っていた。まるで病院の天井みたいだと思っていると、医者と看護婦がやってきて、医者はにこやかな顔で「気分はどうですか」と聞き、わたしの名前や親兄弟のことを続けて聞いた。そして問診のようなことをはじめた。わたしは素直にひとつひとつ答えていく。ところどころで看護婦がメモを取り、最後に「気分が悪くなったらすぐに呼んでくださいね」と言った。わたしは微笑んで、「大丈夫です」と応えた。
 それから一時間もしないうちに両親が来て、すぐに母が泣き出した。父の目も赤くなっていた。泣き言のような説教のような言葉を聞き、「ごめん」とわたしがぼそぼそ呟くと、「まあゆっくり休め」と父が怒ったような顔で言った。
 翌日、弟の利樹が来て、皮肉っぽく笑いながら、「こけちゃったな」と言った。そこでやっと、「ああ、わたしはこけたんだ」と実感した。
 バイクでこけた。細かな雨が降っていた。道路に捨てられていた空き缶を踏んだ。缶は半分だけ潰れていた。一日半ほど意識不明になり、親を泣かせ、弟に退屈しのぎの本を買ってこさせた。
「どうすんの?」
 利樹が丸椅子をガタガタさせながら聞いた。
「どうって?」
 聞き返しながら、買ってきてもらった本を受け取る。小野不由美の屍鬼。前から読みたかったのだけど、その長さに読むのを躊躇っていたものだ。
「バイク」
 利樹は簡潔だった。やや簡潔過ぎるところがある。
「……どうかなぁ」
 両親は二人とも、わたしがバイクに乗ることを反対している。乗りはじめてから、いや、乗りたいと言い出してからずっと反対していた。わたしはことあるごとに「危なくないから」と言い続けて、事故らないように心掛けてきたはずなのに、現実には空き缶であっさりと転んで、今は病院のベッドの上で文庫本を見つめている。表紙のほの暗い絵が、今の気分と妙にマッチして笑えてしまう。
「バイクどうだった? 知ってる?」
 気分を変えるように顔を上げると、利樹は少し表情を曇らせた。
「壊れてた」
 ほんと簡潔だね、あんたは。
「どのくらい?」
「んー……、がっかりするくらい」
 想像して、深くため息をついた。
 潮時だろうか。もう27だ。給料の大半をバイクにつぎ込む生活を変えるいい機会かもしれない。同期の子が恋とか愛とか仕事とか結婚とかクリスマスとか言っている間、わたしはずっと海岸線を走ったり、山道を走ったり、ふと蕎麦が食べたくなって長野に向かったり、途中でガス欠になりかけて焦ったりしていた。一般的なOL像からはかなり外れている。今バイクをやめたら、何かしらのイベントでまだどうにか騒げるだろうし、爪の間に入った油がなかなか落ちない苦労からも開放される。いいことずくめ、というわけにはいかないだろうけど、そう悪いこともないはずだ。
 でもなぁ、とわたしはもう一度ため息をついた。
 でも、わたしはバイクが好きで、あの振動が好きで、風景が流れていく感覚が好きで、コーナリングの感触を愛している。オイルやガスのにおいも決して嫌いじゃない。冬は死ぬほど寒いんだけど。
 そこまで考えて、ふいに両親の顔が浮かび、気持ちが重くなった。
 二人とも泣いていた。お母さんも、たぶんお父さんも。バイクはがっかりするくらいに壊れていて、そしてたぶん、わたしの命があったのはただ運が良かっただけなのだろう。またバイクに乗りたいと言ったら、二人とも呆れるだろうか。罪悪感に苛まれながら乗るバイクは、果たして楽しいだろうか……。
「あっ、そうそう」
 わたしがそんなふうに悶々と考え込んでいると、利樹が唐突に立ち上がり、自分の鞄を漁りはじめた。ベッドから離れつつ、パッケージに入った黒い物体を取り出す。
「写ルンです、買ってきたんだ」
 それには「スナップキッズ」と書いてあった。ボケなのかマジなのか、それとも使い捨てカメラは全部「写ルンです」なのかはわからないが、その微妙さ加減とふいを突かれたのとで、わたしはつい吹き出していた。笑いながら、何気に良い弟を持ったなと思った。
「とりあえず記念に一枚」
 適当に離れた利樹がカメラを構えながら言う。
「何の記念?」
 わたしはニヤニヤしながら聞き返した。
「んー、えっと」
 利樹はカメラを外し、左手で顎を撫でながら考えて、
「長き眠りから覚めたお姫様の……えと」
 ――お姫様が長き眠りから覚めた記念、とか言いたかったのかな?
「まあいいや。目覚めた記念に」
 あっさり過ぎなのもどうにかしたほうがいいと思うぞ、弟よ。
「じゃあそれで」
 わたしは苦笑しながら一応それにノッた。利樹はいつもよりお気楽そうにしている。わざとそうしているんだろう。見ているとざわざわとした感情が沸き上がってくる。その気楽さに対しての苛立ちと、嫉妬。他にも感謝とか諦めみたいなものや、それから「ごめん」とかがあったけれど、どれも言葉にはしなかった。
「まあ、目覚めて良かったよ」
 穏やかな利樹の言葉に、目覚めなかったときのことを思わされた。そう低くない確率だったのかもしれない。本当に運が良かっただけで。息をつき、腕の包帯を見下ろした。暗い表情をしていたのか、弟が「ん?」と様子を伺うように首を傾けた。
 ふっと強く息を吐いてから顔を上げ、軽く微笑んだ。とりあえず今は幸運と、お気楽な弟に甘えておこうと思った。
 利樹がもう一度カメラを構える。わたしは右手を伸ばしてピースをつくった。「いくよー」という利樹の間延びした声に合わせて、ゆっくりと笑った。


 夕暮れ時だった。僕は油で汚れた作業着を着て、バイクの前に座り込んでいた。彼女は偏差値の高さを売りにしている高校の制服を着ていて、ぽかんと口を開けたまま突っ立っている。僕は彼女を見上げていて、彼女は僕を見下ろしていた。
 見覚えがあった。たぶん中学か小学校の同級生だろう。目を逸らせば簡単に終わりそうで、何となく僕はそうしようかと思ったのだが、その前に彼女が僕の名前を呼んだ。
「うん」
 反射的に返事をしていた。しまったなぁ、と思いながらも僕は微笑んでいた。近所のおばさんじゃない女の子なんて慣れていないから、笑みはたぶんぎこちなかったはずだ。
「何……してんの?」
 彼女は何の警戒もなく、好奇心の赴くままに近寄ってくる。
「バイト」
 僕は簡潔に応えた。
「えーと、バイク屋?」
「まあ見ての通り」
「ふーん。でもなんで?」
「なんでって……」
「あっ、ごめん。なんかイメージじゃなかったから」
 彼女はしゃがんで、僕と目の高さを合わせる。顔が近い。このくらいの女子ってのは緊張しない生き物なのだろうか? 僕は目を逸らしながら言う。
「盗んだバイクで走り出そうとしたんだけど……」
「うん」
「バイクの盗み方を知らなくて、で、今教わってるところ。直結とか」
 ちょっと前に辞めたバイトの先輩のネタだった。「いつでも使っていい」と言われていたのだが、使う機会なんかほとんどないので忘れるところだった。でもこれで先輩も本望だろう。思わず「成仏してください」と祈りかけて、「違う違う」と心の中で突っ込んだ。
「へえ。……でもさ」
 明らかなネタなのに、彼女はマジにとったらしい。
 僕は「あれ?」という感じに振り向いた。たまたまうつむき加減だった。たまたま太股とむき出しの膝が視界の真ん中にきていた。スカートの中身はぎりぎり見えなかった。たまたまだった。顔が赤くなる前に視線を上げて、彼女と目を合わせた。彼女はやけに真剣な目で僕の顔を覗き込んでくる。思わず目を伏せたくなったが、そういうわけにもいかず、何とかこらえて見つめ合った。
「でもね、バイク盗むのって、犯罪なんだよ」
 やけに真剣な口調で言った。
「……知ってる」
 僕は毒気を抜かれた顔をしていたと思う。彼女は真剣な顔を崩さない。やたらと真剣だった。真剣過ぎですよお嬢さん。笑いがこみ上げてくる。ああ、これは負けたなと思い、僕は素直に吹き出した。
「そりゃ犯罪だけど」
 僕がそう言うと、彼女は「にへへ」と勝者の笑みを浮かべた。
 強引にガードをこじ開けられた僕は、彼女にバイクの話をした。店長や他のバイトの人もいたが、見て見ぬ振りをしてくれていた。彼女は好奇心の赴くままにいろいろ聞いてきて、僕もいろいろ教えたが、直結のやり方は教えなかった。
「じゃあ今度、後ろ乗せてね」
 帰り際、口元で笑いながら彼女が言った。
「道路交通法違反」
 僕はわざとらしく真剣な口調で返した。彼女は少し考え、
「んー、じゃあ……、わたしも免許取るからー、今度一緒に走ろうねー」
 店長や他のバイトの人にも聞こえるくらいの声だった。ニヤニヤと笑っていた。そして彼女は、わざとらしくぶんぶんと手を振りながら帰っていった。その後姿を眺めながら、やられたなぁ、と思った。
 振り返ると、店長と他のバイトの人がニヤニヤ笑っていた。さっきの彼女と同じようなニヤニヤ笑いだった。二連敗。彼女はたぶん面白がってまた来るだろう。思いがけずに強敵が現れたわけだけど、でもそれを楽しんでいる自分もいて、何だか妙な気分だった。
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右目の行方
 いつもながらの味わい深い古本屋で、「それ」以外は特に変わりはなかった。最初は強盗かと思ったのだが、レジを荒らされた形跡はなく、だから次に痴情のもつれってやつかなと考えた。しかし、生前の彼女から「痴情のもつれ」を連想するのは何だか難しかった。基本的にのどかな性格で、ぽやっとした顔つきのカズミさん。今はレジの奥でパイプ椅子に座ったままぴくりとも動かない。首にコンセントの延長コードを巻いていた。巻かれていた。細い首がキュッと絞まりそこだけさらに細くなっており、皮膚が捩れて縫い目のような皺が刻まれていた。軽く口を開け、赤い舌がそこから覗いて、何だか妙にエロっちい。右目の上に白い眼帯が乗り、やぼったい眼鏡が重なっている。眼鏡は少しずれている。なかなかマニア受けしそうなフォルムだった。
 カズミさんは右目の取り外しができる。外した目のほうでちゃんと見ることもできるらしい。人に預けて目だけの旅行を楽しんだりするような少し変わった人で、だからたとえ殺されても私はさほど心配していなかった。
「カズミさん?」
 呼び掛けてしばらく待ったが返事はなかった。また眠っているのかなと思う。仕事中なのに。仕方なく私はレジの中に入り、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を持ってきて、カズミさんの隣に座った。適当な感じでレジの横に積んであった売り物の一冊を引き寄せる。小林泰三だったのでちょうど良い気がした。
 ホラー小説ってのは何故こうも長いのだろう。三十ページほど読んだところで、もう一度「カズミさん?」と呼び掛けた。今度は「ううん」と眠そうな声が返ってきた。やっぱり眠っていたみたいだ。
「カズミさん、生きてる?」
「んー、寝てた」
 そこは「死んでる」と答えるところだろうが!と思ったが、でもそういうところこそがカズミさんらしくもあった。
 苦笑しながら小林泰三を元の本の山に返すと、途端、山がぐらりと揺れた。無造作に積み上げられていた本が滑り雪崩になり――かけたところで私は慌てて山を支えた。「おいおい」と突っ込みながら立ち上がり、山の麓を見やると、分厚い新潮文庫がハードカバーとノベルスの間に挟まっていた。どうやら元より絶妙なバランスで積み上げられていたらしい。カズミさんの得意そうなことだった。私も家ではよくやってしまうのだが、古本屋でこうなるのは果たしてどうなのか。
「ちょっ、カズミさん」
 一応あんた店長だろうと山の製作者に目を向けるが、そのカズミさんはエロい顔をしたままでまったく動こうとしていない。
「んー、なに?」
 のん気な返事についムカついてしまう。赤い舌がずっと見えていることにも余計な怒りがこみ上げてくる。喋っていたときもその舌はまったく動いておらず、口もマヌケな感じに開いたままだった。私は両手で本の山を支えている。片手でも空いていたら「この口か! この口がゆうたんか!」とカズミさんのほっぺたを掴んで引っ張っているのだが、しかし今はそんなことをしている場合じゃなくて、
「崩れそうなんだって」
「……うん?」
 疑問形にちょっと殺意を覚えた。
「あ、あのね、支えとくから下の文庫のやつ抜いて。崩れるから」
「えっ? ……えーと、無理」
 あっさりとカズミさん。いや、何を言っているんですかカズミさん? 一応ここの店長なんでしょうカズミさん?
「なんでよ?」
 ムッとしながら私は聞く。カズミさんは相変わらずエロいままで微動だにせず、
「ほらあれ、……死後硬直?」
 だからなんで疑問形なの? ああ、でも死後硬直か。
「じゃあしょうがない、かな」
 ふぅっと息がもれる。
「うん、ごめんね」
「いや、謝ることじゃないんだけど。えっと……、ほんとに死んでたんだ」
「う、うん。見てわかると思うけど」
 いやいや、カズミさんに限っては見た目じゃわかんないから。と言うか死体は普通喋んないから。
 とりあえず両手と胸と腹と、あと膝なんかを駆使して崩れかけた本の山は自力で直した。絶妙なバランスに戻してから、三つに分けてレジに並べる。挟まっていた新潮文庫は真保裕一だった。そういえば推理小説も分厚いよなぁと表紙を眺める。とても寒そうなカバー絵だった。
 ついでに三つの山をハードカバー、ノベルス、文庫と大体で仕分けていく。何をやっているんだろうと思わなくもなかったが、流れでついついやってしまった。
 お金にならないひと仕事を終えたあと、私はまたパイプ椅子に腰を下ろした。
「ありがとー、おつかれさまー」
 カズミさんは陽気な声でお礼を言ってくれたが、その顔はやっぱりエロくて、まったくどうしたもんだろうと思う。ここは古本屋で一応ながら商売をしているはずだ。カズミさんのフォルムはお客をかなり驚かせてしまうんじゃないだろうか(まあ常連ならこういうのには慣れているだろうけど)。人ごとながら私はそんな心配をした。
 時間を確認すると三時半。寂れた店とはいえ、日が沈むころには冷やかしのお客くらい来るだろう。私はパイプ椅子を引き摺るようにしてカズミさんに近づき手を伸ばし、そのずれた眼鏡を直した。多少はマシかと思ったが、軽く開いたままの口がマヌケで、そこから覗いている舌がエロいままではどうしようもない気がした。
「ねえ、カズミさんは死んだままなの?」
「うん、たぶん」
 たぶんて。
「店、閉めとこうか?」
 とりあえず建設的な意見を提示してみる。
「うん……、でも閉めてたら心配されそうだし」
「えと、カズミさんの死体があるほうが心配されると思うけどね」
 苦笑混じりに私は言った。
「うーん……」
 そう言ったきりカズミさんは「うーん、うーん」と悩んでしまった。おやつの選択を迫られて心底困っている子供みたいな声だった。しかしそれでもカズミさんの顔はマヌケでエロくて動かないままで、私は笑っていいんだかどうなんだかよくわからない気分に陥ってしまう。視線を移し、レジに積んだノベルスの背表紙を眺める。知らない名前がいくつも並んでいた。タイトルから判断するに、やはりミステリー系統の本が多いようだった。何故カズミさんは殺されたのか? 誰にカズミさんは殺されたのか? そんなことを頭の中で呟いてみるが、どうも私はそういうのにはあまり興味がないようだった。
「あのね……」
 しばらくしてから、おずおずと、のようにカズミさんは言った。表情がわからないから声色だけでの判断になる。
「バラバラ殺人事件って」
「やだよ!」
 瞬間叫ぶ。気にせずにカズミさんは、
「運びやすいからバラバラにするんだって」
「やだって!」
 再度私は叫んだ。
「えー」
 えー、じゃねえよ。
「そういう血生臭いのは苦手だってば」
 カズミさんをバラバラにする自分を想像して、たちまちにぞっとした。
「だって――」
 すねたような声。顔はエロい。
「死体があったほうが心配されるって」
「それとこれとは」
「……大人はウソつきだ」
 思わず「大人はウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです」と応えかけ、慌てて口をつぐんだ。いや、どう突っ込んだらいいのかわからないよカズミさん。
 ぶつぶつ言うカズミさんを放っておいて、私は立ち上がりレジを出て、入り口のほうにいった。安っぽいクローズドの札を出し、扉を閉め、鍵をかけてカーテンを引く。隙間から光がもれるかもしれないが、これで一応誰も入ってこないだろう。戻ってくるとき、漫画の棚から何となく寄生獣の四巻と五巻を引っ張り出す。どうも私はそんな気分だったらしい。寄生獣は他には八巻だけがあった。
 漫画二冊をレジに置くと、カズミさんはぽそり、「五百円」と呟いた。さっきと同じすねたような声だったが、ちゃんと値札どおり言うところが微笑ましく感じたりもする。私は素直に財布を出し、五百円玉をレジテーブルにパチッと置いた。それからレジの中に入って、またカズミさんの隣に腰掛ける。
「閉めちゃったー」
 カズミさんは少しばかり……、わりとけっこう子供だった。
「うん」
 私はただ頷く。
「勝手にー」
「うん」
「いいって言ってないのにー」
「うん」
「バラバラ殺人事件」
「やだ」
 またぶつぶつ言い出したカズミさんを尻目に、私は寄生獣のページを捲る。ミギーは可愛い。シンイチはすごくいい。すぐに話にのめり込む。濃いざらざらとした緊張感。血生臭いのに悲しい。好き。
 ふと何かを思いつき、私は寄生獣から顔を上げ、天井辺りの虚空を見つめた。その思いつきを吟味し、どうだろうとひとりごちる。アリかナシかで言ったらナシなんだろうけど、カズミさんならアリかもしれない。言ってみても損はなさそうだった。
「ねえねえ」
「えっ、何?」
 すねていたはずなのに、呼び掛けるとカズミさんはどこか嬉しそうな声で応えた。カズミさんのそういう種類の子供っぽさはわりと可愛いらしく思う。
「カズミさん、右目ずっと誰かに預けてたよね?」
 けっこう前からカズミさんは眼帯をしている。どこかで右目を落とし、誰かに拾われてそのままになっていたはずだ。ペットのようにして飼われているのだと、いつだったかカズミさん本人から聞いたことがある。
「うん、今、昼寝してる」
 もうそろそろ夕方だけどね。いや、それはともかく、
「ねえ、その右目で何とかならない?」
「何とか?」
 小首を傾げるカズミさんを想像するが、実際に今隣にいるのは舌を出したままでエロいカズミさんだった。
「そう。その右目から体とか作れないかなぁ」
 私は妖怪人間ベムのおどろおどろしいオープニングを思い浮かべながら言った。
 カズミさんは「うーん」と戸惑ったような声を上げたが、
「ん、やってみる」
 すぐに前向きに応え、それから集中するためにか黙り込んだ。
 私はその間、寄生獣を弄んだ。パラパラと捲ってみるが、何となく気もそぞろになってしまい、ただカズミさんの横顔を眺めた。いつの間にかまた眼鏡がずれていてサイズが合ってないんじゃないかとか、右手だから「ミギー」で右目もミギーだけどまあちょっと変えるとして「ミメー」とか呼べばいいのかな、などと、まったくもってどうでもいいことを考えて時間を潰した。
 時計の秒針が二回りほどした頃に、
「うん、何とかいけそう」
 ようやくカズミさんはそう告げた。
 私は「おお!」と思わず拍手していた。拍手するようなことかどうかわからないけれど。カズミさんは「ふふん」と気取ったような、照れたような声をもらした。しかし表情はエロいままで、やはりどうにも違和感があったりしたが、
「ええと、実況しようか?」
 カズミさんは調子に乗ってそんなことを言う。
「何を?」
「白い目玉に付着したほの赤い肉のような物体が蠢き増殖し――」
「何だかグロそうなのでやめてください」
「えー」
 えー、じゃねえよ、だから。カズミさんの声はやたらと残念そうだった。
「で、どのくらいでカズミさんは範馬刃牙のように復活するの?」
 私はグッと伸びをして、それから椅子の背もたれに身体を預けた。バキをあまりよく知らないカズミさんは多少戸惑いながらも、「三十分くらいかなぁ」と答えた。カップラーメン風味なことを想像したのだが、そこまではお手軽じゃないようだった。
「三十分か……」
 呟きながら私は立ち上がりレジを出て、漫画の棚に向かった。寄生獣の八巻を半分だけ抜き出して、少し迷ってからまた納める。七巻があればなぁと思う。顎に手を添え、「うーん」と悩んだ。暇なときにでも読みたいと思っていた漫画があったはずなのに、タイトルも作者も、どんな内容だったかも思い出せない。でもまあ、けっこうありがちなことなので、鼻歌ひとつでやり過ごし、漫画の棚を端から端まで視姦する。本は身悶えなどしない。恥ずかしがって両手で顔を隠す擬人化された本を思い浮かべながら、背表紙を順に眺めていった。
 下のわかりにくいところに「すげこまくん」があった。永野のりこだった。瞬間、「おお」と声を上げてしまうほどの懐かしさに襲われ、思わず手に取っていた。表紙を撫でる。すげこまくんの愛しさは、私の理性を溶かしてしまう。二巻から五巻と、八巻があった。また八巻だった。カズミさんは八巻が好きなのか、或いは天丼が好きなのだろう。
 すげこまくんの二巻と三巻と、それから、なごみたい気分にもなっていたので、ささだあすかを一冊持って、またカズミさんの隣に戻った。
 カズミさんは何も言わなかった。子供のようにぶつぶつと文句を言ったりしなかったし、本代の請求もしてこなかった。「カズミさん?」と呼び掛けても返事はなかった。集中している、と言うよりかは、カズミさんの意識はもう「右目」のほうにいってしまったのだろう。今、隣にいるカズミさんは、本当にただの死体になってしまったようだ。
「……うーん」
 軽い感慨のようなものを覚えながらも、私はすげこまくんの二巻を開いた。決して真っ当ではないはずの漫画が、ひどく愛しい。これはたぶん、永野のりこが愛しいのだ。永野のりこを知らなかったら、私はもっと真っ当な性格だったかもしれないと、ページを繰りながらそんな都合の良いことも考えた。でもそれはありえなかっただろうし、真っ当じゃないのはとても素敵なことだとときどき心底思ったりしていたから、「ケセラセラ」とひとり呟いて、あとはすげこまくんの中に流れることにした。
 二巻を読み終えて顔を上げ、時計を見ると、二十分ほど経っていた。
「カズミさん?」
 呼び掛けたが、もちろん返事はなかった。あと十分ほどすれば、ここにカズミさんはやってくるだろう。いや、移動もあるから二、三十分ほどだろうか。それでもカズミさんの形をしたものが隣にいて、もう返事をしてくれないことに、妙な寂しさを感じてしまう。
「カズミさん……。おやすみ」
 言ってしまってから、それも変だよなぁと軽く自分を笑った。
 三巻を読み終えて、ささだあすかを読みながらまったりニヤニヤしているところで、何かを叩く音が聞こえてきた。次いで、「ただいまー」とのん気なカズミさんの声。入り口の鍵を閉めていたことを思い出し、私は仕方なく本を閉じて立ち上がった。時計を見るとあれからさらに二十分ほど経っている。予想通りの時間だったが、あと十分か十五分遅く――ささだあすかを読み終えた頃に来てほしかったと、少し勝手なことを思いながらも入り口のほうに向かった。
 カーテンを開けると、ドアのガラスの向こうにカズミさんの顔があった。少しの違和感があって、カズミさんが眼鏡を掛けていない事に気づいた。考えたら当たり前のことに少し驚く。「メガネは体の一部ですー」と、昔のテレビCMが頭をよぎっていく。
 それともうひとつ、左目の瞼が下りていた。たぶんその下に「目」はないのだろうと何故だか確信的に思う。振り向いてレジを見る。そこにいるエロいカズミさんには右目がない。「目」には神秘的なイメージがあり、私はそれで何の根拠もなく勝手に納得した。
 カズミさんは基本的にぽやっとしているのだけれど、実は少し吊り目で、眼鏡を掛けていないときの顔はやっぱりきつい感じになってしまっていた。あのやぼったい眼鏡がないと、どうもカズミさんらしくない気がした。
 ドアを開ける。カズミさんは私を見てあらためてにっこりと笑い、「ただいま」ともう一度言った。私は「おかえり」と微笑んで、店の中へと促す。立場が逆転しているなぁと一瞬思ったが、カズミさんに一度だってこんなふうに迎え入れられたことはないことに気づき、口元で笑った。
 カズミさんはスキップするように中に入ると、棚の前で立ち止まり、すぅっと息を吸い込んだ。それから、ふふっと鼻を鳴らすように笑う。古本屋には独特のにおいがあって、たぶんそれを堪能しているのだろう。そんなカズミさんの後姿を見ているうちに、私も特に意識していなかったはずのにおいを感じる。懐かしいような、どこか安心するような……。
 ふと、無意識に私はカズミさんに手を伸ばしていた。指先がカズミさんの首に触れる。
「んんっ」
 カズミさんはびっくりしたような、少し色っぽい感じの吐息をもらした。「もうっ」と振り返って私を見たカズミさんは止まって、すぐに困ったような感じに笑い、小首を傾げた。眼鏡を掛けてないカズミさんは大人っぽく見える。今、私はどんな顔をしているんだろう? 思いながら、両手でカズミさんの首を触る。自然に私の目はレジのほうに向いていた。レジの奥にもカズミさんがいる。あそこにいるカズミさんの首には、コードが巻かれている。今は冬で、多少暖房は効いているけれど、あのカズミさんはたぶん冷たくて、固いだろう。触れているカズミさんの首筋は、私よりも少し体温は低いけれど温かくて、私よりも少しばかり柔らかくて、そんな、その程度のことに、不思議なくらいほっとした。
「大丈夫だよ?」
 安心させるようにカズミさんは言った。
「うん」
 頷いて、私は手を下ろした。首の横を滑る私の指に、カズミさんはまた「んっ」と色っぽい息をもらした。私は微笑んで、ひとつ深呼吸する。さほど心配していないつもりだったのだが、思ったよりもショックを受けていたらしい。照れくさくなって私がそっぽを向くと、カズミさんは少し意地悪そうに笑った。
「何よ?」
 キレ気味に私が言うと、カズミさんは「んー、何でもー」とからかうような口調で応えた。少しばかり悔しくて、私は店番をしていたときの苦労をでっち上げて言い募ろうとしたのだが、その前に「そうだ」とカズミさんは何かを思いついたらしく、近くの本棚に駆け寄り、しゃがみ込んだ。
「これでやっと一緒にできるねー」
 本棚の下の引き出しを開けながら、やけに明るい声でカズミさんは言った。
「何が?」
 私は近寄って、カズミさんの背中越しにその中を覗き込んだ。そこには大抵、どこの本屋でも本の在庫が入っているはずだ。
「バラバラ殺人事件ー」
 カズミさんはドラえもん風に言って、バールのようなもの取り出した。
「…………」
 絶句する私にカズミさんはそのバールのようなものを差し出してくる。呆然としていたから、私もつい受け取ってしまった。カズミさんはまた引き出しに向き直ると、今度は釘バットを取り出した。バールのようなものが私のエモノで、釘バットがカズミさんのエモノらしい。引き出しの中にはもうひとつ、「巨大ハリセン」というそれはそれは恐ろしいエモノが眠っていた。
「えーとねえ……」
 突っ込みどころが多すぎて軽く途方に暮れてしまった。でもとりあえず私は引き出しの巨大ハリセンを掴むと、それでカズミさんの頭を力一杯叩いておいた。ズバン!となかなか素敵な音がした。
スペース1
 商店街の本屋にしてはわりと大きいほうだと思う。家族でやっていて、今現在、無職家事手伝いのわたしが店番をやらされている。二時半という中途半端な時間なので、店内のお客は三人ほど、車の雑誌を立ち読みしている眼鏡を掛けたサラリーマンと、漫画の棚を眺めているタイトスカートのOL、それから、パズル系の雑誌を物色中の渡会笑美がいる。
 渡会は中学校のときからの友人で、当時はそれなりに目を引くような真っ白な肌をした大人しい感じの少女だったけれど、中学を卒業して五年後の夏の日差しが、その肌を小麦色に焼いていて、彼女の印象を活発で健康的なものに変えている。小麦色は海で焼いてきたとかそういうことではなく、いわゆる土方焼けで、首から上と腕の部分だけが染まっている。彼女はガソリンスタンドで働いており、日祝よりも平日のほうが休みであることが多く、たまにこういう中途半端な時間、この店に顔を出すことがあった。
 眼鏡サラリーマンは何も買わずにほどなく立ち去り、その少しあとにタイトスカートのOLがBECKの最新刊を嬉しそうな顔をしながら買っていった。渡会はのんびりてれてれと店内を徘徊し、そのうちにクロスワードとナンバープレイスというパズル系の雑誌と、文庫本三冊を抱えてくる。レジに置いた。
「去年のM-1グランプリで準優勝したお笑いの人って、わかる?」
 渡会が唐突に聞いた。
「何文字? ……わたし、あんまりお笑い詳しくないよ」
「四文字。えっと、何とかキャンディーズ」
「南海キャンディーズ?」
 セクシィなしずちゃんがけっこう好きだ。
「あ、知ってるじゃん。……ありがと」
 お客がいなくなったのをいいことに、まだレジを通してない雑誌を広げ、二人してクロスワードを解いていく。渡会は映画ネタに明るく、わたしは小説や漫画ネタに強い。一応ながらもわたしは本屋の娘であるようだった。
「バニラ……スカイ」
 渡会がタテ8の答えを呟く。
「それの元ネタ……ていうかリメイクの……元になった映画って何だったっけ?」
 わたしの疑問に彼女は顔を上げる。
「ん? ええと、あれでしょ、うん。トム・クルーズじゃないほうの」
「そうそれ。何だっけ?」
「うーん。……言われたらわかるんだけど」
「スペインかどっかの」
「そう。……うーん、ここまで出てきてるんだけど」
 いい感じに話が脱線してきたところでお客が来て、わたしと渡会は自然と口をつぐんだ。クロスワードの雑誌を閉じ、裏表紙のバーコードを読み取る。続けてナンバープライス、文庫本とレジを通していく。値段を言ってお金を貰ってお釣りを渡してから、わたしはそっと彼女に顔を寄せた。小声で言う。
「今日、休み?」
「うん」
「あとで行く」
「オッケー」
 いつも通りカバーは掛けない。文庫と雑誌の束を店名の入っている紙袋に入れて、それをさらにビニールの手提げ袋に入れる。取っ手の部分を広げて渡すと、渡会は「ありがとう」とはにかむように笑った。
「じゃあまたあとで」
 わたしは笑みを返した。渡会は軽く手を振って店を出て行く。入ってきたお客はちらりと一瞬だけわたし達のほうに目を向けたが、特には興味を示さず、すぐに文庫の新刊スペースに張り付いた。しばらくそこにとどまったあと、今度はハードカバーの新刊スペースに足を向ける。外からバイクの走り去る音が聞こえた。
 お客を意識の端で捉えながら、わたしはバニラ・スカイのリメイク元のことを考えていた。ペネロペ・クルスが出演していたことを思い出し、何年か前に流れていたCMが浮かんだ。ペネロペが髪をなびかせているようなやつで、シャンプーだかコンディショナーだかのCMだった憶えがある。CMつながりで、高校生の男女がポッキーを両端から齧っていくワンシーンが浮かぶ。そのシーンの恥ずかしさにわたしは顔を伏せ、ごく軽く口元を綻ばせる。
「……すいません」
 お客がハードカバーを一冊持ってきて、レジに置いた。
「あっ、はい。いらっしゃいませ」
 わたしは慌てて顔を上げ、愛想笑いを浮かべた。ハードカバーの表紙を見ると、それはわたしが好きな作家の最新刊で、目立つ場所に積んでおいたものだ。ちょっとしたいたずらを成功させた気分を噛み締めながらバーコードを読み取る。値段を言って紙カバーを掛けてお金を貰ってお釣りを渡して、
 ――オープンユアアイズ。
 何故かふいに映画のタイトルが浮かんだ。バニラ・スカイのリメイク元の映画タイトル。何をきっかけにしてそれが浮かんできたのかわからない。一瞬、ぴくりと動きが止まるが、すぐに何事もなかったかのように「ありがとうございました」とハードカバーの本を渡した。お客は少し怪訝そうな顔をしながらも会釈し、店を出て行った。
 辺りを見渡す。誰もいない店内は静かで、微かに外の音が入り込んでくる。車の音。飛行機の遠いジェット音。子供の声。水音。蝉。
 落ち着いた気分で目を閉じる。バニラ・スカイとオープンユアアイズとでは、内容の印象がまるで違っていたことを思い出した。
スペース2

 十六歳の少年Aと二十代の会社員と三十代の主婦がネットで知り合い、練炭で自殺を図った。学生の夏休みのはじめころだったから、一年ほど前のことになる。ネット心中というものが流行った時期だったように思う。今でも流行っているのかもしれないけれど、特に調べる気はない。
 わたしがそれをはじめて知ったのは、午後八時五十四分からの短いニュース番組だった。さほど興味のない、しばらくすれば忘れてしまうような情報の一つだった。けれど数日後、少年Aの名前が「渡会」であることを母から知らされた。母はご近所さんとの井戸端会議でそれを知った。少年Aは、渡会笑美の弟だった。
 一人が死んだ。二人生き残った。少年Aは、生き残った側の一人だった。何日か入院して、一旦は家に戻ったが、彼はその一週間後に失踪した。別のネットの知り合いところに身を寄せたのだとうわさで聞いたが、本当のところはわからない。本気での失踪だったらしく、彼は何の手掛かりも残さなかった。未だに行方不明だった。
 いともたやすく渡会の家族はばらけた。蝶結びにされた靴紐でもほどくかのように、簡単に。
 話し合いという名の罵り合いが何度かあったのかもしれない。一ヵ月もしないうちに、渡会の母親は実家に帰った。ほどなく父親もワーカホリックというものに飛び付き、同じように家に戻らなくなった。「父親は愛人の家から会社に通っている」といううわさが立ち、他にも昼メロのような内容のうわさも聞いたことがあった。わたしはそれらに対して嫌悪感を抱きながら無視した。渡会は今もひとり、その家にいる。
 渡会の家は一戸建てで、小さいながらも庭があった。園芸が趣味だという母親が今はいないから、「美しい庭園」ではなかったが、それなりに手入れはされている。庭先に原チャリがぽつんと置かれており、渡会が帰ってきていることがわかる。インターホンを押し、「はい」という渡会の声を聞いてから、自分の名前を告げた。
 しばらくして出てきた渡会は、昼間会ったときとは違う格好だった。帰ってからシャワーでも浴びたのだろう、ノースリーブで、肩にある日焼けの境目が目に鮮やかだった。海に行きたいと思う。日は大分傾いている。長く夏の日差しに晒されている空気が熱い。
「上がって」
 渡会が目とあごでも中に入るように促した。
「おじゃまします」
 玄関先で靴を脱いで適当にそろえた。
「どうぞ」
 渡会は頷いて、玄関のすぐ右手にある階段を上った。わたしも彼女の背中を見ながら続く。流れてくるひんやりとした空気が心地よい。冷房が漏れてきている。二階に上がって、弟の部屋の前を通り過ぎ、渡会の部屋のドアをくぐる。インターホンの音が聞こえにくくなるから、ドアは開けたままにしておく。部屋の真ん中に小さなテーブルが置いてあって、その上にクロスワードの雑誌が広げてある。渡会が向かって左に座り、わたしはその向かいに座った。いつもの場所だ。静かで、落ち着く場所だった。ドアの正面、ちょうど向かい側に窓があって、空気を巡回させるために少しだけ開けてある。薄いグリーンのレースカーテンが微かに揺れている。
「……なんか買ってくればよかった」
 座ってから気づいた。何度も来ているのにたまに忘れてしまう。
「えー、別にいいよ。気を遣わなくていいから」
 渡会は笑って許してくれるから、甘えてしまっているのだろうか。わたしとしては内心平謝りだが、実際にそうすると逆に気を遣わしてしまうので、「悪い」とだけ言って片手で謝った。
 冷やした麦茶がテーブルの端に置いてある。グラスも二つあって、その一つには麦茶が半分ほど入っていて、汗を掻いている。わたしはもう一つのグラスを取り、麦茶を注いだ。渡会とわたししかいない場合、よっぽどのことがない限りはセルフサービスだった。お互い気遣われることに慣れていない。というか、お互い苦手なようだった。
 渡会がシャーペンを片手にクロスワードに向かう。それを見て、わたしは家から持ってきた文庫本を開いた。テーブルに置き、頬杖を突く。渡会がシャーペンを指先で回す。基本的に会話はない。たまに、わたしがどうでもいいような話題を振って、どうでもいいような受け答えをしたり、渡会がクロスワードの答えを聞いて、昼間のときのように脱線したりする。ただ、それもすぐに途切れてしまうような会話だった。
 いつからこんな感じになったのか、憶えていない。けれど、彼女の弟がネット心中を起こす前は、もっと会話を楽しんでいた記憶がある。今はもう、少なくとも渡会とは、以前のようにはできない。でも、わたしはそれを悪くないと思っている。
 いつだったか、渡会と近所のおばさんが道端で立ち話をしているところに出くわしたことがあった。わたしが声を掛けると、渡会はほっとしたような顔になった。おばさんは心配顔を作っていて、わたしに気づくと早口で何かを言い募り、別れ際、渡会に「何でも頼っていいのよ」という意味合いのことを言った。渡会は素直に頷いたが、でもそれは会話を早く終わらせたかったからだろう。一人で暮らしている渡会のことを、近所のおばさんは本気で心配しているのだろうとは思ったが、こういう世話好きのおばさんが一様にうわさ好きであることも事実だ。頼ったりして、そのことを逐一近所にばら撒かれたりするのはたまらないだろう。
 おばさんが立ち去ったあと、渡会は苦笑とため息を漏らし、ぽそりと「どっかに石ころぼうしって売ってないかな」とこぼした。わたしはその一言であっさりと泣きそうになり、こらえて、「そうだね。売ってたらわたしのも買っといて」と暢気な言葉を返した。
 渡会といる空間は静かだった。静かなこの空間が好きだった。静かで、孤独で、誰もいなくて、二人してゆっくりと死んでいくようで、心地よかった。たぶん、人に言うと眉をひそめられるようなことなので、誰にも言わない。言うのが勿体ない気もした。
 時間が流れる。ページを捲る。シャーペンを滑らす。麦茶で喉を鳴らす。テーブルの上にグラスを置く。エアコンのざわついた音。渡会の鼻歌が微かに聴こえる。
 わたしは崩れた頬杖の上でいつの間にか眠っていた。目覚めて顔を上げると、正面の渡会と目が合って、彼女はゆるやかに笑った。わたしはそっと目をそらす。そらした先は窓のほうで、日は沈んでいて、暗くなり掛けの時間だった。
スペース3
「ご飯、食べてく?」
 渡会がシャーペンの先でヨコの18を突付きながら聞いた。
「よければ。……それ、矢田亜希子。ヨコの18」
「ん、オッケー。サンキュ」
 渡会は升目にヤダアキコと書いて、立ち上がった。
「手伝うこと、ある?」
「んー……、特にないかな」
「そう?」
「うん。じゃあちょっと待ってて」
「手伝うことあったら言って」
「うん」
 渡会は部屋を出る。ほどなくして階段を下りる音が聞こえてくる。渡会の家に来たときは、大抵晩御飯を一緒に食べる。渡会が料理するときもあれば、わたしが材料を買ってきて作るときもあった。あまり二人で台所に立つことはしない。それは、見られていると何となく落ち着かない気分になるからで、確認はしてないけれど、渡会もそうなのだろうと勝手に思っている。
 立ち上がって窓際に向かう。少しだけ開けてある窓に指を引っ掛けてカラカラと開けた。カーテンが揺れる。生ぬるい風。窓から地面を見下ろす。埃っぽい乾いたアスファルト。中途半端な時間だからか、誰も通らない。誰もいない。わたしはポケットから携帯を取り出し、自宅に掛けた。電話に出た母に、夕飯は渡会のところで食べるので自分のは作らなくていい、と告げる。母は頷いたあと、「あんまり迷惑掛けちゃだめよ」とだけ言った。何度も交わしてきたやりとりだ。
 普段は口うるさい母だけど、わたしの友人関係については昔から口出しをしてこなかった。興味がないのか、それとも口出しすべきでないと考えているのか。母は今の渡会の状況も知っているはずだけれど、詮索してくることもなく、そのことは何気に嬉しく感じていた。もしかしたらわたしは親に恵まれているのかもしれないとふと思い、苦笑のようなものが浮かんだ。渡会に対して申し訳ないような、でもそう思うのも何となく嫌な気がして、自分でもよくわからないもやもやとした気分になる。渡会は自分の親のことをどう思っているのだろう。もし自分だったらと想像し掛け、苦いものを感じて、やめた。
 ついでにメールチェックをすると二件入っていて、どちらも雑談メールだった。すぐに返信しなくてはいけないようなものでもなかったので、また暇なときにでも返すことにして、携帯を折り畳みポケットに仕舞った。
 渡会が仕事を辞めたことを知ったのも、友人からのメールだった。ガソリンスタンドで働き出す前のことで、彼女はアクセサリーか何かの店で売り子をしていた。彼女の弟のことを知り心配になったという子が、ある日覗いてみたらもう辞めていたそうだ。また聞きの話で、情報元になった子は、渡会とはそんなに親しくなかったはずだ。
 興味本位を心配にすり替える人間がいる。少なくないだろう。全部を否定するわけではないけれど、「心配して」という人達の幾人かが、渡会が仕事を辞める原因の一つになったのは確かなことだと思う。渡会は携帯電話を持たなくなった。
 わたしはそうじゃないと、興味本位を心配にすり替える人間じゃないと、そう言い切れないのがたまらなく嫌だった。覗きに行った子にも悪気があったわけではないのだと思う。わたしは積極的にそうしようとは思わないけれど、もし相手が渡会じゃなくあまり知らない人で、誰かに誘われたりしたのなら、軽い罪悪感を抱きながらもそれに付き合っていたんじゃないだろうか。
 苦い思いを、ため息として吐き出した。
「できたよー。下りてきて」
 階段の下から渡会の呼ぶ声が聞こえた。明るいお気楽な声。エプロン姿でおたま片手に階段下から二階を見上げる渡会の姿を何となく想像した。勝手に想像した漫画のような一コマに、つい口元がゆるむ。わたしは自分の頬を軽くはたき、憂鬱な気分を払いのける。「あいよ」と返事して、カラカラと窓を元の位置に戻してから部屋を出た。
スペース4
 渡会の弟の部屋の前を通り過ぎて階段を下りる。食器がぶつかり合うカチャカチャという軽い音が一階から聞こえてくる。階段を下りるわたしの足音。この家にはわたしと渡会しかいないということをふいに意識して、つい切ないような気分になる。一階に下りてからリビングに向かう。
 リビングのテーブルにはパスタの入った深皿と、レタスとキュウリとタマネギとリンゴを適当に切ってマヨネーズで適当に混ぜ合わせたサラダと、グラスが二つとビールとチューハイが乗っていた。
「具、何?」
 海老とタマネギはわかる。醤油のにおいがする。
「海老と蛸としめじ。炒めて醤油とお酒で味付け」
「蛸?」
「うん。蛸からいいダシが出る」
「ふーん」
「蛸、すごい水出るから」
「へえ」
 向かい合うようにテーブルについて、わたしはグラスにチューハイを注いだ。渡会はビールだった。わたしも彼女もそれほど酒に強くはないけれど、あったらあったで飲むほうだ。
「乾杯」
「乾杯」
 グラスを持ち上げ、カツンと軽く合わせた。喉を鳴らす。
「いただきます」
「どうぞ。……いただきます」
 手を合わせてから、度会作の和風海鮮パスタにその手を伸ばした。フォークをくるくると扱い、適当に巻きつけた麺を少し冷ましてから食べる。
「……あ、けっこういける」
「……ん」
 渡会は嬉しそうに微笑んだ。彼女も麺を巻きつけて冷ましたあと、口の中に入れる。「あつつっ」と呟いて、慌ててビールに口をつける。パスタの麺はよく冷ましたつもりでもけっこう熱かったりする。わたしが口元で笑うと、渡会は照れくさそうにしながらまたグラスを傾けた。白を基調にした清潔感のあるリビングが目に優しい。その代わりに、少しさみしくも感じる。気が向いたらテレビを点ける。今日はたまたま点けていない。
 渡会の母親は自分の実家に戻るとき、娘も一緒に連れて行こうとした。けれど、娘の渡会笑美は、それに首を振った。理由は、父親を一人残してしまうのが何だか心配だったから。それと、弟が戻ってきたとき、親よりも姉弟がいたほうが話をしやすいだろうと思ったから。去年の夏の終わり、酔っ払った渡会本人から聞いた話。その結果、渡会はひとり取り残された。
 渡会はグラスに二杯目のビールを注いだ。わたしも二杯目のチューハイを注ぎながら、渡会の顔をちらりと横目で眺める。うまくいった料理とアルコールとで、渡会はとても機嫌のよさそうな笑みを浮かべている。わたしはグラスのチューハイを一気に半分くらい飲んだ。
 ふう、と息を吐く。見捨ててしまえばいいのに、とわたしは心の中で呟く。他の家族が手放してしまったものを、渡会が一人で留めている。いちばん気にしなくていいはずの人間が、いちばん囚われている。囚われるべきは、渡会笑美以外の家族なのに。
 けれど、と思う。けれど渡会が見捨ててしまったら、この家は終わってしまうだろう。この場所に「渡会」という家族がいた、その痕跡がなくなってしまう。想像しかできないけれど、それはおそろしく悲しいことなのだと思う。最後に残って、最後に見捨てる人間が、最もつらい思いをする。それはある種当然のことなのだろうけど、やり場のない怒りと苛立ちを覚える。
「……ん?」
 渡会がわたしを見ながら小首を傾げていた。渡会の顔をじっと見つめていたことに気づいて、わたしは軽く笑って、「何でもない」と首を振った。
 わたしは目を細めて、インターホンが鳴るところを想像する。渡会は首を傾げながら立ち上がり、インターホンの受話器を上げ、何かを話してから玄関に向かう。そこにいたのは渡会の家族の誰かで、その誰かはすまなそうに顔を伏せている。そして、渡会と幾つか言葉を交わしたあと、気まずそうに謝る。渡会は少し戸惑いながら、でも嬉しそうに首を振る――。
 そんなくだらない人情ドラマのようなシーンを想像した。そんな安っぽい感動的な展開を、わたしはどこかで望んでいた。
スペース5
 人がいないのをいいことに、レジの中で就職情報誌を開いていた。ペラペラとめくって、三十ページほど目を通したところで、一息ついて顔を上げる。すると、すぐにタイミングよくお客が一人入ってくる。
 お客はまず文庫の新刊スペースに張り付き、そのあとハードカバーの新刊スペースに足を向けた。その行動パターンと背格好で、この前ハードカバーを買っていった人だと気づく。確か五日前。ちらりと時計を見ると、この前と大体同じ時間だった。渡会と最後に会ったのも五日前。渡会はこの五日でさらに日焼けしているのだろうなと思う。このお客は一体何の仕事をしているのだろうと、さほど意味のないことをたらたらと考えた。
 お客はハードカバーを手に取り、パラパラとめくり、値段を確かめてまた棚に戻すということを何度か繰り返している。わたしはその人を意識しながら、就職情報誌にまた目を落とした。
 店内は冷房が効いているけれど、レジの中はじんわりとぬるかった。連日の晴天。二時過ぎの陽は少し傾いていて、ちょうどレジ裏の壁が直射日光に晒されている。あと一時間ほどはこの中途半端な気温のままだ。欠伸が漏れそうになり、口を手で覆いながらかみ殺した。
 就職情報誌を閉じて、見るともなしに店内を見渡した。平日の昼間だとしても、もう少しお客の姿があったほうがいいんじゃないだろうか。冷やかしのお客でもいいから。と、勝手にそんな心配をする。ここの経営者である父と話してみようかなと一瞬思うが、その前に自分の就職先を見つけるほうが先だと言われそうな気がしたので黙っておくことにした。
 実際に欠伸が漏れてしまい、慌ててその口を手で押さえた。ちょうどそのとき、バイクの止まる音が聞こえた。渡会かなと思い、何となく入り口のほうに目を遣ると、すぐにその渡会がひょっこりと顔を覗かせた。目が合って、彼女は一瞬びくりとした。わたしは思わず、チッチッと舌を鳴らしたくなった。近所の野良猫にするみたく。
 渡会は口元で笑い、今日は真っ直ぐにすたすたと私のところに来て立ち止まった。近くなった渡会の笑みは、少しこわばっているように見えた。
「引っ越す」
 渡会は唐突に言った。
「うん」
 わたしは反射的に頷いた。言葉の意味を理解するための二、三秒。そのあと、「引っ越すの?」と、かなり頭の悪い発言をした。
「うん、引っ越す」
「そっか……」
「一年待ったし」
「……うん」
「もういいかなって」
「うん」
「一人くらい戻ってくるかなって……思ったんだけどね」
 明るい声。薄く苦い笑み。少しだけ悲しそうな目。
「うん」
「そんなにうまくいかなかったよ」
「……うん」
 頷くことしかできなかった。わたしは渡会の小麦色の肌を見つめる。五日分、また焼けている気がする。元々彼女は真っ白な肌をした線の細い少女だった。けれど、この健康的な肌の色なら、そのイメージは払拭できる。近所のおばさんに心配顔はされない。されにくい。遊びに行って焼けたのなら、いらぬ陰口を叩かれるかもしれないけれど、彼女はガソリンスタンドで働いていて、そのせいで日焼けした。
 心配顔をされないために彼女はガソリンスタンドという職場を選んだんじゃないだろうか。勝手な想像だけど、それほど事実と掛け離れているとは思わない。
 渡会の移動手段は原付バイクで、それを呼び止めてまで世間話をするうわさ好きのおばさんや同級生は少ないだろう。走るバイクを呼び止めてまで、心配しようとする人間なんて想像できない。他人からの「心配」を避けるために、渡会はガソリンスタンドで働き、原チャリで通勤していたんだろうと勝手な想像もする。
 そんなふうに、渡会は待っていたんじゃないだろうか。たぶん、一年間だけ待つことに決めていたんじゃないだろうか。
「でも、そんなに悪くなかったよ」
「……そう」
 わたしは少し目を伏せる。渡会は少し上を向いて、一度深呼吸をしてからわたしの顔を見つめる。
「それから、ありがと」
「……ん?」
 顔を上げて首を傾げるわたしに、渡会は照れくさそうに笑った。
「あんたがいてくれなかったら、きっと、きつかった」
「そう?」
「うん。……つらかった、と思う。ありがと」
「……お礼なんて」
 声が湿った。バカみたいにあっさりと涙ぐまされた。やばい、と思って慌てて顔を伏せた。にじんだ目の端に、渡会のにんまりとした顔が映る。
「泣いた?」
「別に……泣いてなんか……」
 渡会の手が、子供をあやすようにわたしの頭を軽くポンポンと叩く。その手の感触が柔らかくて、本当に涙がこぼれそうになった。
「泣かしてやろうって思ったんだけどね。……でもほんとに泣かしちゃうと、どうしていいのかわからなくなっちゃうね」
「何それ……、むかつく……」
 言い返したその声は、わたし自身の耳にも涙声として届いた。
スペース6
 うつむいたまま顔を上げられないわたしの頭を、渡会の手がやりたいほうだいに蹂躙する。渡会は「へへへ」とからかうように嬉しそうに笑っている。
 ハードカバーを物色していたお客が、その中の一冊を手に取ってレジに近付いてくるのが見えた。けれどレジの中で何故かうつむいている店員と、その頭を撫でながら不気味に笑っている日焼けした女というどこか非現実的な光景に気後れしたのか、途中で引き返してふらふらと手短な棚に張り付いた。そのいい人そうなリアクションに少しなごんで、同時に気を遣わして申し訳ないような気分になる。横目で見ながら会釈すると、お客はすっと目をそらし、棚から文庫本を取り出して、開きながら微かに頷いた。照れてしまったらしく、耳が赤い。
 いい加減顔を上げようと深呼吸をする。髪はかなりぼさぼさになっていると思う。目の下を擦って、ようやくという感じに顔を上げると、渡会は「おーおー」とにっこりしながらまたポンポンと軽く頭を叩いて、やっとその手を引っ込めた。やはりからかうような笑みが渡会の口元にあって、わたしはそっぽを向きながら髪を整えた。
「いつ引っ越すの?」
 拗ねたような言い方になってしまい、舌打ちしたい気分になる。
「来週」
 あっさりと渡会は言う。
「そう……」
「一旦、母親の実家に行って、保証人とかのをいろいろやって、それからお引越し」
「一緒に住まないの?」
「んー、仕事あるし。実家遠いし」
「ガソリンスタンド?」
「うん。けっこう居心地いいから。……おっちゃんばっかだけど」
「ちやほやされてんだ」
「いや、そんなことないよ。ぼーっとしてると怒鳴られるし」
「それ、ぼーっとしてるほうが悪いんじゃない?」
「……ん、うん。まあ、そうなんだけど」
 言葉につまる渡会に、わたしはようやく微笑んだ。渡会も笑って少し顔を寄せる。小声で言う。
「ごめんね仕事中に」
「ん、いや」
「今から実家行かなきゃなんないから」
「え?」
「うん」
「えと、あそこ、引き払ったの?」
 渡会が一年間待っていたあの家。誰も戻ってこなかったあの静かな場所。
「んー……、まだだけど、でも、もう戻ってこないかな。今週は実家に泊まって、来週、引越し先に直接向かうから」
「……そう」
 さみしく感じる。軽く胸を締め付けられるような感覚があって、中途半端に手入れされた庭とか、庭先に置かれた原チャリとか、穏やかで静かなあの空間とか、白くて広くて淋しいリビングとか、あそこにあったいろいろなものを思い出した。
「そんで、これ」
 また涙腺がゆるみ掛けたわたしに、渡会はすっと右手を差し出した。人差し指と中指で二つ折りのメモのようなものを挟んでいる。
「ん、何?」
 受け取って開けると、真ん中辺りに見知らぬ住所と部屋番らしきものが書き殴ってあった。
「引越し先。ちゃんと引っ越したらまた電話するけどね、一応」
「…………」
「どしたの?」
 メモに目を落としたまま動かなくなったわたしの顔を、渡会は怪訝そうに覗き込む。わたしはただメモの文字を見つめていた。三回くらい目で字を追う。文字の意味がなかなか頭の中に入ってこない。
「何か……、渡会って誰にも何にも言わずに出て行くような気がしてたから」
 ほとんど無意識にわたしはそう言った。渡会は「そんなこと……」と苦笑して、
「いや、それもいいかな、ドラマみたいで」
 意地悪い笑みを浮かべながら手を伸ばしてくる。わたしは慌ててメモを遠ざけた。
「一応もらっとく。せっかくだから」
「そう?」
「そう」
 わたしは頷いて、まだ意地悪い顔をしている渡会を軽く睨み付ける。渡会はニヤニヤ笑いながら手を引っ込めた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
「うん、じゃあ。……あっ、バイクで行くの?」
「うーん、一時間半くらいかなぁ」
「遠いな、おい」
「でもまあ、わりと慣れてるし」
「そう?」
「そう」
「ん。じゃあまた来週。引っ越したら電話してね」
「んー、気が向いたらね」
「いや、しろって」
「気が向いたら……うそうそ、ちゃんと連絡するって」
 顔の横で軽く手を振りながら、わりとあっさり渡会は出て行った。わたしはレジに肘をつけて、ふう、とため息をつく。お客が文庫本を開きながら居心地悪そうにしているのが見えて、そっと会釈する。お客は文庫本を棚に戻し、唇を引き結んで、「いやいや気を遣ったわけじゃありませんよ、本を選んでいるだけですよ」と言わんばかりにまた他の棚に移動した。わたしは微笑む。大変申し訳ない、と思う。
 さっきの渡会との会話を思い出す。最近の渡会のテンションじゃなかった。軽くて、やたらからかってきて、意地悪で、ニヤニヤしていた。一年前までの渡会のテンションだ。そのことに、何故かさみしいような、懐かしいような気持ちになる。
 また目が潤んだ。どうも最近、涙腺がゆるみやすくなっている気がする。それでも、書き殴った渡会のメモと、気を遣って店内をふらふらしているお客とで、少し無理に笑ってみる。ちらりとお客のほうに目を向けると、不意打ちでそのお客と目が合った。お客は一瞬ぎょっとして、それから怪訝そうな、でもどこかほっとしたような顔付きになる。
 その微妙な表情に、わたしはつい吹き出し掛けた。失礼だなと思いつつも、でも何か可笑しくて、大声で笑い出したくなった。
クヅカ1
 じいちゃんの家は広くて、広い庭があって、でかい猫がその縁側で眠りこけていた。庭には柿の木とかビワの木とか、これまたでかい木が五本くらい植えてあって、そこに張り付いた蝉が絶え間なく鳴き続けている。庭の囲いの向こう側に山が見える。濃い緑だ。ここから十分も歩かずにその山のふもとまでたどり着ける。周りには家よりも田んぼや畑のほうが多くて、ビルやマンションとか、三階建て以上の建物はこの辺りでは見かけなかった。じいちゃんの家は母さんの田舎で、ここは田舎らしい田舎だった。
 僕と真由は夏休みで、父さんと母さんもお盆休みで、そんなわけで僕ら一家はじいちゃんの家に遊びに来ていた。夕方と呼ぶよりも少しだけ早い時間、僕は縁側に寝そべって、板張りの冷たさを味わっていた。でかい猫は頭の方向にいる。白猫だから「シロ」と名付けるのは定番で、田舎くさくて、それだけで何となくのんびりした気分になる。奥の部屋から生ぬるい風が吹いてくる。古い扇風機があたたまった空気をかき混ぜていて、蝉がうるさくて、縁側が冷たくて、だから僕はだらだらと眠ったり、うとうとと眠りかけたりしていた。やる気なく「シロ」と呼びかけると、彼もだらだらと一回だけ尻尾を振った。
 みしみしという足音が二人分聞こえて、そのテンポと音の加減でじいちゃんと真由だとわかった。けれど僕は少しばかり面倒くさく思って、眠りかけのぼんやりとした感触に浸ったままでいた。
 じいちゃんは庭に降りて草木に水をやり始めた。真由は僕のそばにぺたんと座って、少しぼーっとして、それから僕の頭をぐりぐり撫でた。僕はだらだらしたまま動かずにいて、真由はしばらく撫でていたけれど、そのうちに飽きて、持ってきたゲームボーイアドバンスをてれてれやった。真由はそれにもまた飽きて、最後にシロの耳とかしっぽとかで遊んだ。シロは迷惑そうにしながらも、ずっと遊ばれてやっていた。よくできた猫だと思う。
 水をまき終えたじいちゃんは、台所に行ってスイカを切って持ってきてくれた。さすがに僕も起き上がって、出されたスイカにかぶりつく。父さんと母さんとばあちゃんは親戚の家に挨拶に行っていて、そのまま今夜の宴会の準備をしているらしい。スイカを食べている間も、真由はシロを撫でたりいじったりしていた。夕方ごろ、宴会の準備ができたという母さんからの電話で、ようやくシロは開放された。


 僕の隣で真由は眠たそうだった。真由はわりと人見知りするほうだから疲れたのかもしれない。窓の外は暗くて、上を向くとちゃんと灯りがあるのが見えるけれど、僕が普段目にしているのとは全然違っていた。車のライトがないとほんの少し先も見えなかった。
 僕と真由は後部座席にいて、じいちゃんが運転して、ばあちゃんがその隣でニコニコしている。じいちゃんもばあちゃんも元から笑ったような顔立ちの人だった。真由はわりとじいちゃんに懐いていて、ときどきばあちゃんが少しだけさみしそうな顔をする。僕はどちらかというとばあちゃんといるほうが居心地よくて、それで何となくバランスが取れているのかなと思う。
 父さんと母さんはまだ親戚の宴会に付き合っている。僕は刺身とか焼肉とか三ツ矢サイダーとかを食べたり飲んだりして、親戚の酒くさいおじさんやおばさんに話しかけられて、「大きなったなぁ」と何度も言われて、真由は人見知りでじいちゃんにべったりで、退屈してたらちょうどいいタイミングでじいちゃんに呼びかけられて、じいちゃんの運転する車で先に帰ることになった。
 じいちゃんの家の前に着いたときには、真由はもう眠り込んでいた。体の力が抜けてぐにゃぐにゃだった。むにゃむにゃいう真由を抱えるように車のドアの近くまで引っ張ってくると、じいちゃんがドアを開けて、真由をひょいと抱き上げた。じいちゃんのにおいとか感触とかを憶えていたのか、真由はゆるい顔になってじいちゃんの首に腕を巻きつけた。かわいい孫にそんなふうにされて、じいちゃんの顔もゆるむ。ばあちゃんは「あらあら」と言いながらも、少しうらやましそうだった。
 真由を布団まで運んだあと、「さすがに疲れた」とじいちゃんは言って、すぐに自分の寝室に引っ込んでしまった。ばあちゃんは居間で自分と僕の分の麦茶を出して、「美味しかったかい?」とか「憶えてた人いる?」とか、そんな何でもないことを聞いた。僕はテレビを見ながら、「うん」とか「あんまり」とか答えた。ばあちゃんも疲れてたらしく、しばらくするとあくびをもらして、「あんまり遅くまで起きてちゃだめよ」と言ってから寝室に向かった。
 昼間寝てたせいか、全然眠たくならなかった。黒くてくっきりとした柱時計に目をやると、まだ九時前。父さんと母さんは、今日は親戚の家に泊まるのかもしれない。九時を過ぎると見たいテレビがなくなった。ドラマとか映画とかばっかで、クイズとかバラエティーとかはやってなかった。ゲームでもやろうかなと立ち上がって、真由と僕の部屋に行こうとしたとき、ふと、居間の入り口の脇に置いてある電話と、その隣にある懐中電灯が目に入った。
 僕は立ち止まって少し考える。もう一度時計を見る。九時十二分。電話をかけてもまだぎりぎり大丈夫な気がした。手書きの電話帳からクヅカを探す。「玖塚」という名前があって、たぶんこれだと思った。一度深呼吸をしてから受話器を上げた。番号を押して、どきどきしながら待った。
「はい、玖塚でございます」
 女の人が出た。クヅカよりもずっと年上の、落ち着いた感じの声だった。たぶん、クヅカのお母さんだ。
「もしもし、中島といいますけども」
 焦って少し早口になっていた。心臓がバクバクいっていた。もっとかっこいい名前だったらな、と、ちらりと思う。それから、クヅカの下の名前を思い出そうとした。確か「ミ」ではじまる……。ミズキじゃなくてミナコじゃなくて……。「えーと」を三回くらい繰り返してからやっと出てきた。
「ミサコさん、いますか?」
 クヅカミサコは僕よりも二つ年上の女の子だ。
「……え……ええ、ちょっと待ってね」
 クヅカのお母さんは一瞬驚いたみたいだった。僕は「はい」と頷いて、流れてくるオルゴールみたいな音楽を聞きながらしばらく待った。九時十六分。
「もしもし、タカヒコくん?」
 九時二十三分を過ぎたころに、ようやくクヅカのゆるゆるとした声が聞こえてきた。
クヅカ2
 どことなくだるいけれど、眠くはなくて、ぼんやりと天井を見つめていた。天井には人の顔に見える木目がいくつかあって、昔はあんなのが怖くて泣いてしまったり、眠れなくなったりしてた。あらためて見ても、やっぱり少し怖い気はする。でも見慣れたものだから、そのせいで眠れなくなることはもうない。
 部屋のクーラーの温度は16℃に設定してある。普通なら寒いと思うくらいの室温だけど、いまはもう暑さも寒さもさほど気にならない。右手を顔の前に持ってきて、ゆっくりグッパと動かした。その動きに違和感はなくて、「あんまり変わらないのにね」と口の中で呟いた。
 左手には点滴の針が刺さっている。刺すときもあまり痛くはなかった。入ってくる液の感触が変な感じだけど、これはたぶん慣れの問題なのだと思う。
 痛みや、肌の感覚が鈍くて弱い。右手で左腕をつかんでみると、手袋をつけたまま触ったときのような感触だった。やっぱり私は死んでいるのだと確認できてしまって、胸の下の辺りがほのかに重たくなる。泣きたいような、笑い出したいような気分。けれど、どこか他人事のようでもあった。他人の不幸を聞かされたときのような。
 私が死んだのは十日ほど前だった。夏休みで、その日は何の約束もなくて、とても暇だった。暇なとき、私はいつも釣りに出かける。釣りは私の数少ない趣味だった。おっさんくさい趣味だとよく言われる。
 帽子に着古した白シャツに短パン。いつも通りの格好で釣り糸をたれていた。蝉の声と川のせせらぎと空の青と真っ直ぐな日差しと遠くの雲と濃い緑のにおい。土のにおい。大きな岩の上に乗り、あくびをして、持ってきたアイスを食べて、もくもくと釣り糸を投げたり、アタリに合わせたり、えさを付け替えたりしていた。釣れるかどうかはさほど問題じゃなく、私はのんびりとした時間と、たまにある微妙な刺激を楽しんでいたのだと思う。
 合わせたときに足を滑らせて、岩で頭を打って、気絶して、川に落ちて、そしてそのまま流された。途中の流れのゆるいところで、岩に運良く引っかかって、たまたま通りがかった役場の堺さんに川から救い出された。ネクロフィリアの堺さんに唇を奪われて胸を揉まれて……と、それは今私が作ったでたらめで、人工呼吸と心臓マッサージを施されて、私は一旦息を吹き返した。けれど、結局は助からなかった。あとから聞いた話では、堺さんは実際必死にやってくれていたそうで、何だか感激だった。聞いたとき、嬉しくて少しにやけてしまったほど。堺さんが若松武史似の素敵なおじさまだというのはこの際関係なく。
 血筋とか家柄とか、ここら辺りの信仰とかの影響で、死んだはずの私はもう一度生き返った。遺体がさほど損傷してなかったのも良かったらしい。多少驚いたけれど、田舎だし、山奥だし、そんなこともあるのかなと思った。生き返ったとき、目の前にいた両親に正直にそう言うと、「この子は……」と涙ながらに抱きしめられた。そんなふうに抱きしめられたことなんて久しくなかったから、何年かぶりだったから、実のところそれにいちばん驚いた。
 点滴は三分の一ほどになっていた。液を全部消費するまであと十分くらい。少し眠たくなってきていた。
 田舎の怪しい力と、この点滴を含めたいろんな薬のおかげで私は生きている。でも、そう長くは持たないらしい。近いうちに、私はもう一度死ぬことになるのだけれど、あまりその実感はない。
 ステーシーという最近読んだ小説を思い出した。15歳から17歳までの少女達が次々と突然死し、ステーシーといういわゆるゾンビになってしまう。その彼女達を再び殺さなくてはならない。ちゃんと殺すために細かな肉片にしなくてはならない。そんな物語。
 グロくて、いかれてて、哀しくて、でも何か忘れられない話だった。私は14歳で、彼女達になるには一年足りない。彼女達が羨ましいとふと思うこともあるし、単純にいやだなと思うこともある。
 あと五分程度で点滴が終わるというところで、ノックの音が聞こえた。ドアのほうに目を向けると、すぐに母が、「いい?」とためらいがちに顔を覗かせた。中に入ってきた母は室内の寒さに軽くぶるっと身を震わせる。この部屋は私の体を腐らせないための冷蔵庫だった。私は起き上がりながら頷き、「何?」と聞いた。
「……どうしようか迷ったんやけどね」
 母はどうも言いづらそうにしていて、私はもう一度、「何?」と先を促して、口元で笑ってみせる。
「中島さんとこから電話が来たんよ」
「……中島さん?」
 その名前には何となく憶えがあったけれど、眠気のせいかちゃんとは思い出せない。
「ほら、毎年お盆に遊びに来てるあの子。美沙子とよく遊んでた」
「タカヒコくん?」
「そう、そのタカヒコくん。……どうする?」
 母が困り顔で聞く。聞かれても困ると思う。どうしよう。私は本来なら死んでいて、普通なら電話になんて出られるはずがないのに。
「タカヒコくんは知ってるの? 私の……こと」
 私が一度死んでまだ生きていることは一部の人間しか知らない。この土地いる親戚と、近所に住んでいる付き合いの深い人。中島のおじいさんは近所に住んでいる付き合いの深い人だけど、タカヒコくんに私のことを伝えてたりするんだろうか。
「わかれへんけど、知ってる思うよ。中島さん嘘つかれへん人やし、それに、ちゃんと教えたらなかわいそうやと思うような人やから」
 確かに。
「……うん」
「いややったらゆうといたるよ」
「ん、や、出る」
 点滴を見ると、あと二、三分で終わりそうだった。
「これ終わったらいく」
 電話は居間にある。
「……ごめんね」
「ん、ううん」
 最近、何でもすぐに謝ってしまう母に首を振った。
クヅカ3
 九時三十三分。居間の窓から見える外は真っ暗だった。耳から離した受話器から、「ちょっと待って」というクヅカにしてはあわてた声が聞こえたけれど、僕はそのまま電話を切った。電話の横にある懐中電灯を持って、居間を出て玄関に行く。寝室で眠っているじいちゃんとばあちゃんを起こさないようにそろっと歩いた。
 待ち合わせ場所にしたのは、いつもの橋だった。じいちゃんの家から歩いて五分くらいのところに橋はあって、クヅカの家からも同じくらいのところだった。クヅカが釣りに出かけてしまったときは、僕はその橋の下で待つことにしていた。クヅカは大体朝から出かけて、昼過ぎか夕方ごろに帰ってくる。昼に行ってしばらく待って帰ってこなかったら、夕方にもう一度行く。クヅカがどっちに帰ってくるのかはその日の調子しだいで、夕方、僕が川上のほうをぼーっと眺めていると、クヅカもぼーっとした感じで川沿いの道を歩いてきたりする。クヅカは僕を見つけると一瞬びくっとして、それからにっこりと笑う。「遅い」と僕が言うと、「ごめんごめん」とクヅカは謝った。謝ることなんてしてないのに、クヅカはよくそんなふうに謝っていた。
 玄関で靴をはく。指が少し震えていた。右手の懐中電灯を何となく見つめる。クヅカとあの橋で会う。会う時間が夜ってだけなのに、どうしてだか心臓がいつもより早く鳴っていた。少しだけ怖い気もしたけれど、どこかわくわくもしていた。夜中に出かけるのはしちゃいけないことで、しちゃいけないことってのは楽しいことだったりするのだ。
 玄関の鍵を開けようと手を伸ばしたところで、寝室のふすまが開く音がした。僕は思わずびくっと固まった。
「……タカヒコ、どないした?」
 すぐにじいちゃんの眠そうな声が聞こえた。まずい、と僕は振り返りながら背中に懐中電灯を隠した。寝室から出てきたじいちゃんは、眠そうに眉間にしわを寄せながらあくびをする。僕が黙っていると、じいちゃんは「どうした?」とまた聞いた。
「ん……、なんでもない」
 どきどきしながら僕は口の中で言った。
「なんでもないて……、タカヒコ、靴はいて……」
 じいちゃんはふと黙って、僕をじっと見つめた。あごに手を当てて、思いついたように僕の背中を覗き込もうとする。僕は懐中電灯を見られないように体をよじった。言い訳を考えようとしたけれど、何にも思いつかずに、結局僕は「なんでもない」とさっきよりも大きな声で言い張った。懐中電灯を握る手が汗でべとついていた。
 じいちゃんは僕の背中を覗き込もうとするのをやめて、ふん、と鼻を鳴らしてから口の端でニヤッと笑った。そんな笑い方をするじいちゃんを見るのははじめてで、少し怖くて、でも何となくかっこいい感じだった。
「玖塚さんとこ行くんか?」
 じいちゃんが確かめるように聞いた。僕は目をそらして、少し迷ったけれど、「ん」と小さく頷いた。
「そうか……」
 じいちゃんは呟くと、「ちょっと待っとき」と言って、奥の部屋に入っていった。僕は知らんぷりして出てしまおうかと一瞬思ったけれど、それよりもじいちゃんが何しに奥の部屋に行ったのか気になった。しばらくして戻ってきたじいちゃんは、取っ手のついた赤い何かを持っていた。
「ほれ」
 そう言って渡してきた赤いそれは、懐中電灯だった。僕が電話の横から持ってきたのよりも二回りくらい大きい。交換するように僕は小さいほうの懐中電灯をじいちゃんに渡した。
「気ぃつけてな。あんまり遅なんなや」
 じいちゃんは小さいほうの懐中電灯を受け取ると、その反対の手で僕の頭をぐりぐりと撫でた。
「いいの?」
 僕は顔を上げて聞いた。
「ん? やめとくか?」
「いや、行く」
「……そうやな」
 じいちゃんは頷いて、笑って、「気ぃつけてな」ともう一度言った。
クヅカ4
 ひとつ息を吐いた。ごぼりと空気のかたまりがゆっくりと昇っていき、いくつもの小さな粒がそれに続いた。見上げた空には水面があって、夏の真っ直ぐな日差しを切り取り、ゆがめている。形を変えられ細切れにされた光の群れはとてもきれいなのだけれど、ずっと見つめていると何故だかひどく不安になった。
 光は砂を白く照らし、小さな波の影がそれに映った。砂の床は水の底で、流れる水に合わせて砂はゆるやかに動く。砂が膝や足の指をくすぐる。揺れる水面が光を弄ぶ。左手を伸ばして平泳ぎをするように水をかくと、今までの流れが乱れ、水と水面がまた細かく揺れる。砂の動きが変わる。
 また、ごぼりと空気が昇っていく。見知らぬ誰かが仰向けに寝転がっている。それらは見渡す限りに幾人もいて、ただ静かに空気を吐いている。五人、十人、二十人、四十人、八十人……、ごぼりごぼりと口から次々と空気のかたまりを吐いている。かたまりは水を昇りながら形を変える。水に丸まり、伸ばされ、ゆがめられる。それでもかたまりは水面を目指して昇り続ける。
 空気をすべて吐き終えた者から砂になっていく。人の形をした砂が、揺れて流れる水に少しずつ溶けていき、やがて平らになる。人型の砂はやがてただの砂になる。
 砂になるのがいやなのであれば、空気を吐き終える前に砂の床を蹴り、水面の上に顔を出せばよい。水面の上で空気を得て、また水の底に戻ってもよいし、あるいはまたどこか別の場所を目指してもよい。
 体を後ろに倒して仰向けになり、細切れの光を見つめながら、ごぼりとまたひとつ息を吐いた。ゆっくりと昇っていくかたまりを見つめているうちに、ふと気まぐれを起こし、立ち上がり、そっと砂の床を蹴った。体が砂から離れ、水面が近づく。
 何故そんな気まぐれを起こしたのか、わからない。自分の中のどこにもその答えはなかった。
クヅカ5
 十時を少し過ぎていた。部屋は暗闇で、目を凝らしてようやく物の輪郭が見えてくる。網戸の入った窓。二組の敷き布団とタオルケット。片方の布団にはちびっこい女の子が眠っていて、昨日の夜はその隣に彼女の兄もいたのだけれど、今この部屋には彼女しかいない。
 スースーと彼女は静かな寝息を立てている。風に乗って微かな虫の音が紛れ込んできている。彼女は無意識にそれを聞き、自分の眠りを深くする。彼女にかけられていたはずのタオルケットが、その腕の中で乱暴に丸められ、本来の役割を果たせずにいる。ときどき彼女は「んー」と暑そうに唸り、タオルケットを引き連れて何度か寝返りを打っているが、窓から入ってくる網戸越しの風がそれなりに涼しく、多少の蒸し暑さを感じながらも安らかな眠りというものを得ているように見えた。
 庭先では真っ白な猫が低い姿勢を取っている。彼はシロと呼ばれていた。そろりと地面に四本の足を置き、二メートルほど先の獲物を狙っている。獲物であるヤモリはシロから見て横を向いており、まだ自分を狙うものの存在に気づいていないようだった。少なくともシロ自身はそう感じているだろう。シロはじわじわ距離を詰め、同時に気持ちを高めている。密やかなその一歩は二十センチほどだろうか。虫の音と風がよい具合にシロの気配を消している。慎重に五歩進んだところで、シロはひと呼吸置き、その場で体重移動させ、タッと踏み込むと同時に獲物に飛びかかった。
 その存在に気づいていなかったはずのヤモリは、しかし待ち構えていたかのように素早く移動し、シロの爪から数センチの差で逃れた。ザクリとシロの爪が地面だけを捕らえる。シロはさらに追撃をかけたが、それもまたヤモリの動きのほうが一瞬早かった。
 ニャウ! とシロの短い鳴き声が響いた。悔しそうな声に聞こえたのは気のせいだろうか。そんな静かで激しい攻防に気圧されるように、虫の音はいつの間にかやんでいた。
 部屋でも寝息の音が途切れていた。「うーん」という唸り声、その声を発した彼女は寝返りを打ち、うつ伏せになった。うっすらと目を開けて、しかしすぐに閉じる。もそもそと膝を曲げ、うずくまるような格好でしばらくとまった。また虫の音が聞こえてくる。彼女はタオルケットを抱きしめている。やがてそのタオルケットに向かってまた「うー」と唸ったあと、体を起こし、のろのろと立ち上がった。
「……おしっこ」
 誰のともなく呟いて部屋の入り口のほうに進む。その足取りはなかなかに不確かで、もし彼女の兄が隣に眠っていたなら、確実にその足や腹を踏みつけていただろう。彼女はふすまを開けようとして手を伸ばし、しかし距離感を間違えて二回空振った。
 用を足したあとのすすいだ手を腰のところでごしごし拭いた。ふわあ、と大きなあくびをもらし、それから部屋に戻ろうとして、彼女はふと居間の電気が点いていることに気づいた。明かりに引き寄せられる羽虫のように、彼女はそこに向かった。
 居間には彼女の祖父がいて、テーブルの前で懐中電灯を弄っていた。懐中電灯を点け、消し、放り投げ、自分で受け取る。
「おにいちゃんは?」
 彼女がそう声をかけると、祖父は驚いて動きを止めた。自分の孫娘をその目で確かめると、「驚いたわ」と、ほっと息をつきながら笑った。
「うん」
 彼女も小さく笑う。
「タカヒコは……、まあちょっとな。心配せんと寝とき。疲れたやろ」
 彼女は少し迷ったあと、躊躇いがちに「うん」と頷いた。兄のことが気になる様子だったが、それよりも眠気のほうが勝ったらしく、祖父に半分眠った声で「おやすみ」と告げると、ふらふらとした足取りでまた部屋に戻った。
 中に入りふすまを閉めると部屋は暗闇になる。彼女は昔から夜目が利くほうで、そのせいか暗闇を恐れなかった。二組の敷き布団とタオルケット。片方のタオルケットは乱れ、布団の端に追いやられている。彼女は全く迷わずに乱れていないほうのタオルケットに潜り込んだ。まだ人の体温を吸っていない布団が心地よいらしく、彼女は薄く微笑むと、すぐに安らかな寝息を立てはじめた。
 深い眠りに入る前に少し不思議な夢を見る。それは水と砂の、やけに涼しげな夢だった。
クヅカ6
 懐中電灯の光を当てると、クヅカは一瞬遅れて目を細めた。
「まぶしい」
「うん」
「……うんじゃなくて、まぶしいよ?」
 僕は手首をだらんとさせてクヅカの足元を照らした。クヅカは橋の入り口のところにいて、クーラーボックスの上に座っていた。水色のクーラーボックス。釣りに行くときにクヅカがいつも持ち歩いているやつで、僕はそれを見て、何故だかわからないけれどふっと力が抜けた。
 クーラーボックスの横にはクヅカの懐中電灯があって、その光がクヅカを下から照らしている。クヅカはいつものへろへろのシャツじゃなく、真由がよく着ているような白っぽいワンピースを着ていた。肩が出てる袖なしのやつで、その肩に水着の日焼けの跡があって、それが何だかエロい気がした。
「座る?」
 クヅカはそう言ってクーラーボックスの上を半分空ける。
「うん」
 僕は懐中電灯を置いて、その半分に腰を下ろした。クーラーボックスは二人で座るには少しばかり狭くて、ぴたっとクヅカの肩が僕の肩にくっつく。クヅカの肩はひんやりと冷たくて、僕は思わずクヅカの横顔を見つめた。
「ん? 何?」
 クヅカは僕のほうを向き、軽く首を傾けながら微笑む。
「……クヅカ、なんかエロい」
 僕が誤魔化してそう言うと、クヅカはびっくりしたような顔になる。
「……エロい?」
「うん、エロい」
「……エロくないよ」
 クヅカは口を尖らせながら自分の肩をさすった。
「クヅカ、エロい」
「エロくないよ、もう」
 クヅカはそう言いながら僕の肩をゲンコツで軽く殴る。
「たっ」
 僕もクヅカの肩を同じように殴り返した。
「痛いって。……あ、ごめん、ちょっと立って」
 クヅカは立ち上がりながら言う。
「えー」
「いいから立って」
 クヅカは僕のシャツのすそをつかんで引っ張った。仕方なく立ち上がると、クヅカはしゃがんで、椅子にしていたクーラーボックスを開けた。クヅカの背中越しに覗き込むと、中には氷と三ツ矢サイダーとスイカバーとガリガリ君が入っていた。
「どれがいい?」
 クヅカは振り向いてにっこりする。
「スイカバー」
「うん、はい」
 僕にスイカバーを渡して、クヅカは自分にガリガリ君を手に取った。
「ありがとう」
「ん」
 クーラーボックスを閉じて、また椅子にする。くっついたクヅカの肩はやっぱり冷たくて、僕は泣きたいような気分になって、けれどスイカバーをかじって何とか我慢した。
「夜とかね、危ないから。……こういうのもうやっちゃダメだよ」
 クヅカがお姉さんぶって言う。それからガリガリ君をガリガリとかじった。僕は言い返そうとしたけれど、でも何も思い浮かばなくて、黙ったまま、スイカバーのチョコの種を奥歯でカシュッと潰した。
「わかった?」
 クヅカは怒ったふうにして僕の顔を覗き込む。
「……ん」
 僕が頷くとクヅカは満足そうに微笑んだ。ふう、と息をついてから顔を上げ、そのまま空を見上げる。僕はスイカバーをもう一口かじる。それから、クヅカと同じように空に顔を向けた。
 夜の空には星があった。襲いかかってきそうなくらいの星空で、それが少し怖くてどきどきした。じっと見つめていると足元が揺れる感じになって、僕はスイカバーを持っていないほうの手で膝をぎゅっとつかんだ。
「怖くない?」
 そっと聞く。
「んー、怖いの?」
 クヅカはのんびりと聞き返した。
「ん……」
「うーん、私はあんまり。……見慣れてるからかな」
「……なんかそれちょっとずるい」
 クヅカは「あはは」と笑って、
「ずるいかなぁ? ずるくないと思うよ」
 食べ終わったアイスバーの棒で、地面に丸とか三角とかを書いた。地面は真っ暗で、ちゃんと書けてるかどうかわからない。クヅカは鼻歌を歌っていた。「それ何?」と聞くと、「サトウチクゼン」と返ってきた。よくわからなかったので、「ふーん」とだけ言って、僕はあんまりちゃんと憶えていないドラえもんを書いた。「おっさんくさいよなぁ」とクヅカは独り言を言う。川の流れる音が聞こえる。虫の音が聞こえる。
 風が吹いているけれど、それでもやっぱり蒸し暑くて、肌がべとついた。クヅカは汗をかいていなくて、それでふっとデパートのマネキン人形が浮かんで、胸の奥がずくんとした。僕はスイカバーの棒を落とし、体を起こして、クヅカのほうに顔を寄せる。
「え? 何?」
 戸惑った様子でクヅカは聞いた。僕は答えず、クヅカの肩に顔をくっつけて、すう、と鼻で息をする。
「え? ちょっと?」
「……クヅカ、ちょっとタンスのにおい」
「ちょっ、何してんの、もう」
 クヅカは肩から僕の顔を引きはがした。それから頬をふくらませて僕をにらみつける。その顔が少しだけ可愛くて、僕は何となく笑ってしまった。
「何笑ってんの? もう、においとかかがないの」
「うん。……でも、けっこう好きなにおい」
 僕がそう言うと、クヅカは戸惑ったように眉を八の字にした。「もう」と言うと、またゲンコツで僕の肩を殴った。
クヅカ7
 近くに映画館はなかった。映画が見たければ、町まで車を飛ばすか電車を乗り継ぐかをするしかない。私の隣には父がいて、目覚ましガムを噛みながら車の運転をしている。私は眠たい目をこすりあくびをする。母は車酔いをする性質なので後部座席で目を瞑っていた。日は昇ったばかり。一日でいちばん気温の低い時間、少し開けた窓から入ってくる風が涼しく、このまま釣りに行きたくなる。
 何かやりたいことはないかと聞かれて、私は映画が観たいと答えた。田舎育ちの私には、映画を観ることもちょっとしたイベントだった。
 お盆休みで人手が多いのと、死んだはずの私が誰かに見られたら困るのとで、こんな早朝に出かけることになった。本当は演劇なんかも見たかったのだけど、どこでやっているのかわからなかったし、はずれたときがいやだったので、無難に映画にした。演劇が観たいと言ったら言ったで調べてくれるのだろうけど、そこまでの強い思い入れはなかった。
 父の横顔をちらりと眺める。再び死ぬまでの時間をずっと釣りに当てたいと言ったら怒るだろうか。いや、怒らないと思うけれど、たぶん少し悲しそうな顔はする。釣りは、私が死ぬ原因になったことで、そして手助けしなくていいやりたいことだ。
 私は釣りが好きで、でもそれはひとりで完結できてしまうことで、だからこんなとき何か申し訳なくなってしまう。自分がもっと積極的にあれがしたいとこれがしたいと言えて、死にたくないと泣き叫ぶような人間だったらと考えて、全然自分らしくないなぁと苦笑する。いつだったか友達に、「枯れてるねぇ」と言われたこともあったけれど、こんな自分が嫌いってわけでもない。
 ふと、友達に会いたいなと思う。カズミやアヤコに。葬式では二人とも泣いていたそうだけど、カズミはわかるとしてもアヤコが泣いているところは想像できなかった。いや、もしかしたら姉御肌のアヤコのほうが実は涙もろいのかもしれない。ごめんねと思うと同時に、少しからかってやりたくもなった。
「やりたいこと」で、友達に会いたいと言うのもいいかもしれない。許されることかどうかわからないけれど、帰ったときにでも言うだけ言ってみようと思う。
 砂利道がひび割れたアスファルトに変わる。車は川沿いの道を通り、私はつい川の中を覗き込んでいた。みやげ物屋とか民宿とかが増えてきているけれど、道の脇にはまだ雑草が生えている。土と草と水のにおいがして、ふと「タンスのにおいがする」と言ったタカヒコくんの言葉を思い出した。タンスのにおいってどんなだと思い、私は腕を鼻のところに持っていく。そのまま、すう、と息を吸うと、微かに薬品のにおいがした。防虫剤のにおいに近くて、確かに「タンスのにおい」という感じだった。
 タカヒコくんと同じで、けっこう好きなにおいかもしれない。変態かなぁ、と少し笑う。
クヅカ8
 夜。ロウソク。懐中電灯。車のヘッドライト。
 照らされた人影が気ままに動いている。ぼんやりとした四つの影。小さな女の子の人影にロングスカートの人影がまとわりつき、いちばん背の高い人影に男の子の人影が蹴りを入れ、蹴り返された。
 私はその四人をよく知っている。でも、いつの間にか知らない誰かに入れ替わっているんじゃないかと、そんな想像をする。マユちゃんとカズミ。アヤコとタカヒコくん。初対面同士なのだけれど、仲良くやっているようだった。
 車のほうを向くと、私の両親とタカヒコくんの祖父母がいて、四人でのんびりと雑談をしている。何を話しているかは遠くて聞こえない。私の話かもしれないし、まったく別の話かもしれない。私はひとりぽつんとクーラーボックスに座り、スイカバーをかじっている。花火の途中、疲れたので少し離れたところで休憩している。
 マユちゃんが花火を手に取り、ロウソクのほうに近づいていく。花火の先に付いた小さな紙にロウソクの火を移し、じっと見つめる。すぐにパチッと火花がはじけ、シューッと白い光が噴き出す。彼女は立ち上がって、空中でその光をぐるりと回した。それからゆっくりと丸や三角を描いていく。楽しそうな様子が見ていて微笑ましかった。
 煙とともに火薬のにおいが漂ってくる。ロウソクの近くと、私のすぐ横に水の入ったバケツがあって、役目を終えた花火がそこに何本も浸っている。私はあくびをし、クーラーボックスの端に手を突き、少し体を斜めにした。
 映画を観た日の夜、中島のおじいさんが本物のスイカを持ってやってきた。おじいさんは、私とタカヒコくんが途中の橋で待ち合わせをしたことを知らなかった。「てっきり玖塚さんとこに行ったかと思っとった」と頭をかき、それから、「女の子を夜中に出歩かせてしまってすまない」と頭を下げた。特に危ないこともなかったから別にいいのにと思ったけれど、おじいさんの顔が真剣だったので、「いやそんな別に」と顔の前で手を振った。するとおじいさんは少しほっとした顔を見せて、そのあと申し訳なさそうにタカヒコくんのことを話した。
 タカヒコくんはお盆休みが過ぎたら両親と一緒に帰る予定だったのだけれど、それを嫌がり、ごねて、夏休みの間、中島のおじいさんの家に留まることにしたのだそうだ。毎年中途半端な夏休みの宿題をちゃんとやるという、私なら「うえぇ」と思う交換条件を飲んだらしい。タカヒコくんが何故そんな行動をとったのか、理由は聞かなかったけれど、私のことがあったからだろうと簡単に想像できる。
「気ぃ悪せんやったらまた遊んだってくれんかな」とおじいさんはまた頭を下げた。両親は顔を見合わせたあと、私を見やった。おじいさんも私を見つめた。六つの目にせかされ、私は混乱したまま頷いていた。
 それから毎日のようにタカヒコくんに会った。何故かマユちゃんも一緒についてきた。マユちゃんも夏休みの間ここに留まるらしい。両親はつれて帰ろうとしたのだけれど、彼女は兄のシャツをぎゅっとつかんだまま放さなかったそうだ。頑固な兄妹もいたものだなぁと思う。
 やがて花火は燃えつきて、色鮮やかな光がひとつ消える。交代でカズミが花火に火を点ける。マユちゃんは火の消えた花火を持って、こっちに近寄ってくる。立ち止まって、水の入ったバケツに花火を投げ入れる。水の中で花火がジュッと鳴った。
 クーラーボックスに座っていると視点が低くなる。マユちゃんが私をじっと見つめている。いや、私じゃなく、たぶん私の口元にあるスイカバーを見つめているのだろう。「食べる?」と差し出すと、彼女はこくりと頷いて、シャクッと赤いアイスをかじった。むぐむぐ口を動かしながら私の太ももに手を置いて、そのまま這い上ろうとする。仕方なく私は彼女の腰に腕を回し、持ち上げて膝の上に座らせる。太ももとお腹に彼女の体重と体温を感じる。スイカバーを口のところに持っていくと、またシャクッとかじった。足をぶらぶらさせている。しばらくそのままでいたけれど、ふといたずら心が湧き起こって、私は目の前にある細い首筋にすっと指を滑らせた。
「ひゃっ」
 短い悲鳴を上げてマユちゃんは身をよじる。彼女は首を反らして私の顔を見上げると、にへーと笑った。
「おねえちゃん、つめたい」
 子供の体温は高く、死体の体温は低い。私は「そう?」と聞きながら、今度はぺたぺたとそのゆるんだ頬を触った。マユちゃんの頬はすべすべで柔らかい。私の指先はまだ感覚を伝えてきてくれている。「つめたいつめたい」と彼女は嬉しそうな悲鳴を上げた。
 そんなふうに遊んでいると、黒く焦げた花火を持ってカズミが歩いてきた。ジュッという水の音。私をちらりと見たその目が、「いいなぁ」と語っていた。「いいなぁ、マユちゃんに懐かれて」と。
 カズミはマユちゃんに一目ぼれをしたようで、ずっとまとわりついている。前からそれっぽいなとは思っていたのだけれど、どうやら本当にロリコンだったらしい。お願いだから犯罪者にはならないでおくれと心の中で祈りながら、「うらやましい?」と口の端で笑ってみせる。カズミは「くっ」と呻いて悔しそうに唇をかんだ。
 ロウソクの近くではアヤコとタカヒロくんがじゃれあっている。アヤコは男っぽいところがあるから、タカヒコくんみたいな男の子とは気が合うのだろう。仲良く花火をやっていたかと思うと、突然タカヒコくんがアヤコに組み付く。そんなタカヒコくんを、アヤコはどこかのガキ大将のように乱暴に扱った。引きはがして蹴りを入れ、けれどタカヒコくんも蹴り返す。その光景に男の友情みたいなものを感じたりする。一度拳を交えたらダチ、みたいな。
 一本のスイカバーを三人でかじった。棒だけになったところで、「休憩終了ー」と膝からマユちゃんを下ろした。また花火をやりにいく。マユちゃんが私の手を取って引っ張っていく。むくれたカズミが、マユちゃんのもう片方の手を握った。
「……水のにおい」
 歩きながらマユちゃんが言った。いつの間にか私の手を鼻のところに持ってきている。兄妹二人ともにおいを嗅ぐくせがあるみたいだ。
「水……?」
 私はつないでいないほうの手を嗅ぐ。タカヒコくんはタンスのにおいと言った。なんだろう、塩素のにおいだろうか。
「プールのにおい?」
 私はマユちゃんの顔を覗き込んだ。彼女は首を傾げ、「うーん」と唸る。上手く説明できないみたいだ。
「水のにおい。……川のにおいかな」
「うぉっ」
 カズミがいつの間にか私の背後に来ていた。私の肩辺りでスンスンと鼻を鳴らしている。カズミにはこういう得体の知れないところがあって、ときどきすごく驚かされる。
「ミサコ、釣りばっかしてるから、川のにおいがしみついてる」
「んー、そう? そうかなぁ」
 火薬のにおいがする。花火のにおい。私に気づいたタカヒコくんがすぐに寄ってくる。カズミがマユちゃんに花火を渡す。アヤコは二人を見て、目を細めて笑う。
「水のにおいだって」
「ん?」
 タカヒコくんは不思議そうに私を見上げた。彼は男の子だけれど、まだ私のほうが頭半分くらい高い。
「マユちゃん、水のにおいだって、私」
「……ふーん」
 また肩に顔を寄せられる。よくにおいを嗅がれる日だと思う。慣れてしまった感じもする。肩のところにある彼の頭を、私は少し乱暴に撫でた。指の間を滑っていく短い髪の感触が、ちょっとだけ気持ちよかった。
クヅカ9
 車とロウソクと懐中電灯。その三つの明かりでも、夜をぼんやりとしか照らせない。光の帯から少し離れるだけで姿を消せてしまい、怖いのに、頭のどこかはそれもいいかもしれないと考えている。胸の奥がむずむずする。それは恐れなのか、あるいはまた別のものなのか、わからない。
 ロウソクの向こうでアヤコと少年がじゃれあっている。まるで子犬の兄弟みたいだと思ったけれど、詩的な感じが恥ずかしいから口にはしない。すぐ横にマユちゃんがいて、目を移すと、今まさに花火に火を点けようとしているところだった。しゃがんで息をとめ、ぐっと手を伸ばして。少し怖がっている様子が何となく可愛い。頭を撫でたり頬を突付いたりしたかったけれど、危ないので今はやめておくことにした。
 少し離れたところでミサコがアイスをかじっている。休憩中のようで、クーラーボックスに座って、ぼーっとこっちを眺めている。のんびりしているところは変わらない。そのことに少しほっとするけれど、軽い苛立ちも覚えた。
 ミサコは死んで、まだ生きている。弔われたはずなのに、今のんきにスイカバーをかじっている。
 花火が白い光を吐き出す。マユちゃんは立ち上がって花火を振り回す。わたしが飛び散る火花を恐れて二三歩下がると、彼女はいたずらが見つかったときのような照れ笑いを浮かべた。振り回すのをやめてゆっくりと空に図形を描く。丸や三角。ひらがな。楽しそうな様子に、つい笑みがこぼれた。
 持っている花火の火が消えると、マユちゃんはキョロキョロと辺りを見渡しはじめた。ミサコを捜しているのだろうと思ったけれど、くやしいので黙っておいた。わたしが自分の花火に火を点けるのとほぼ同時に、マユちゃんはミサコを見つけて小走りにそっちに向かった。
 火は赤から緑に変わる。わたしは花火から噴き出る光をじっと見つめる。物悲しい気持ちにもなったけれど、それも悪くない気がした。花火の光はやがて消える。
 黒焦げになった花火を持って、わたしもミサコのところに行った。ミサコの膝の上にマユちゃんがいて、まるで仲の良い姉妹のようだった。マユちゃんはミサコを「おねえちゃん」と呼び、他の誰よりも懐いている。
「うらやましい?」
 ミサコがわたしを見上げて口の端で笑った。意地の悪い笑み。もちろんうらやましいに決まっているのだけれど、ミサコには意地悪をする才能がなくて、こういうとき妙になごんでしまう。それでも呻いて唇をかむと、ミサコは「あはは」と楽しそうに笑った。
 スイカバーをひと口もらう。向こうでアヤコと少年がしゃがんで、ぼそぼそと何かを話している。マユちゃんが足をぶらぶらさせて、それに合わせてミサコの体もゆらゆらと揺れる。
 わたしはミサコを見つめる。首筋。耳。唇がわたしの知らない歌を口ずさむ。てのひらが小さな女の子の頭を撫でる。
 この光景を憶えておきたいと思う。じっと見つめて目に焼き付ける。忘れっぽいわたしは十年もすればミサコの顔を忘れてしまうかもしれない。それでも今は、彼女をずっと長く記憶にとどめておきたいと願う。
 ミサコの指先がマユちゃんの髪をなぞっていく。つむじの横から耳の後ろ、細い首筋。わたしも同じように後ろからミサコの髪を撫でた。
「ん?」
 ミサコは首を反らし、わたしを見上げた。その顔が無邪気で間抜けで、ふいに泣きそうになった。けれど恥ずかしいからぐっとこらえて、口の端でちょっと笑ってみせる。
「何か付いてた?」
「や、何も」
「そう?」
「……うん」
 髪を撫でる。マユちゃんが気持ちよさそうに目を細めている。


クヅカ10
 冷房は18℃だった。少し肌寒そうな二人にカーディガンと長袖のシャツを渡す。マユちゃんは嬉しそうに「ありがと」と応えたけれど、タカヒコくんは素直じゃなくて、「いいよ、別に」とすまして言った。
「ごめん、冷房切るね」
「……いい、いい」
 そう言ってぶんぶんと首を振るタカヒコくんに、口元がむずむずした。笑みをこらえて、「じゃあ、これもらって?」とシャツを差し出すと、タカヒコくんは少しためらったあとにようやく受け取った。私の服を羽織った二人は、同じタイミングで袖のにおいを嗅いだりして、私は思わず吹き出した。不思議そうに私の顔を覗き込んできたタイミングもまた同じで、さらに吹いてしまった。
「何でもない」
 私は何とか笑いをおさめて言う。
「んー? うん?」
 タカヒコくんは首を傾げながらも頷いた。
 ベッドに座ると、すぐにマユちゃんが寄ってきた。彼女は私の膝が気に入ったみたいで、私がどこかに座ると必ずそこに這い上った。私の膝の上でしばらく足をぶらぶらさせていたけれど、やがて持っていた携帯ゲームをやりはじめた。
 ゲーム画面が横に流れていく。マユちゃんは指を複雑に動かし、画面を見つめたままあんまり瞬きもしない。頬を突付いてみたけれど、今は忙しいらしく、「んー」と嫌がるだけなのが何だかさみしかった。
 タカヒコくんは私の右後ろに寝転がって、ずっと漫画を読んでいた。今読んでいるのは田中メカ。ちょっと前の少女漫画で、たぶん名前と『お迎えです。』というタイトルに気をひかれたのだろう。「面白い?」と聞くと、「んー、うん」とやる気のない答えが返ってきた。マユちゃんと似た反応が微笑ましい。兄妹なのだなぁと思う。
 今日は八月三十日で、明日の朝には迎えが来て、二人は家に帰る。私と遊ぶのは今日が最後で、せっかくなのでカズミとアヤコも呼んでいた。昼前に来ると言っていたから、もうそろそろやって来るはずだ。
 ゲームがぴこぴこ鳴っている。私はやることがなくて、マユちゃんの髪をいじって遊んだ。髪を三つ編みモドキにしてまたほどく。ポニーテールにしたり、左右で二つにまとめてみたり。髪のゴムが近くになかったから、輪にした指をその代わりにする。マユちゃんの髪は細くてさらさらで、なかなかうらやましく、いじっていると妙になごんだ。
 ふと目をやると、タカヒコくんはあくびをして大口を開けていた。目が合ったので軽く笑ってみせると、タカヒコくんは恥ずかしそうに目をそらした。すぐにマユちゃんが「んー」と伸びをする。ゲームを終えたらしい。彼女はじりじりと体の向きを変え、私と向かい合った。笑いかけてきたから笑い返すと、マユちゃんは私の首に腕を回しぎゅっとして、私の肩辺りに顔を埋め甘えてきた。突然のことで少し戸惑う。
「ん? どうしたの?」
 聞いても、「んーんー」と喉を鳴らすだけで何も答えてくれない。タカヒコくんが、しょうがないなぁという顔をする。私は少し首を傾げてみせたけれど、タカヒコくんはすぐに漫画に戻ってしまった。冷たい子だ。
 もしかするとマユちゃんは、さっきので私がすねたかと思って、かまってくれているのかもしれない。いや、ただ単にこうやって突然甘えてくるくせがあるのかもしれない。
 ともかく私は、マユちゃんの頭を撫でたり背中をさすったりした。泣いてる子にする対応だなぁと思いながらも続けていると、しばらくしてマユちゃんは顔を上げた。にへへと照れくさそうに笑う。鼻血が出そうな笑顔だった。
「どうしたの?」
 顔を覗き込んでもう一度聞いた。ちょっと油断した。頬にキスされた。
「へっ?」
 間抜けな声が出た。マユちゃんはまた私の肩に顔を埋める。「マユちゃん?」と呼びかけても彼女は顔を見せないままぐりぐりと首を振った。それは、いろいろ、ずるい。タカヒコくんがびっくりしたような目で私とマユちゃんを眺めている。どうしようかなぁと考えてから、
「んー、じゃあ仕返し」
 私も腕の中の彼女にキスを返した。頬に軽く触れる。マユちゃんは「やー」と悲鳴を上げて、またぐりぐりと首を振った。ぐりぐりされる鎖骨が少し痛そうな気がした。
 さらに二三秒ほど考えて、「タカヒコくん」と私はにっこりして呼びかけた。タカヒコくんは怯えたようにびくりとした。
「ちょっと来て」
 怯えた目をした年下の男の子に欲情する。
「来て来て」
 手招きする。タカヒコくんは膝立ちで、恐る恐るという感じに近寄ってきた。
 口にしようかと一瞬迷ったけれど、やっぱり頬にした。トラウマを植えつけるはやめておくことにした。タカヒコくんは頬に手を当て、難しい顔をしている。どう反応していいのかわからないのだろう。頭を撫でると赤くなった。こんな行動、私らしくない気もしたけれど、たまにはいいかなと思う。照れる二人を交互に眺める。頬がゆるむ。


クヅカ11
 電話が鳴った。テレビを見ていた兄が、ちらりと電話に目をやる。けれどあたしのほうが電話に近い。
「はい、緒方です」
「あっ、えと、鈴木と言いますけど、アヤコさんは――」
「ああ、うん。ちょっと待って」
 保留を押し、オルゴールが鳴るのを確かめてから受話器を置いた。兄は特に興味を示さず、またすぐにテレビに戻った。あたしは居間から出て、二階に上がる。歩きながら階段横の棚に置いてある子機をつかみ、自分の部屋に入る。ちゃんとドアを閉めてから子機の通話ボタンを押した。
「悪い。お待たせ」
「アヤコ?」
 子機からミサコの声が聞こえてくる。あたしはベッドに座る。
「ん、今、自分の部屋だから大丈夫」
「うん。……やっぱなんか、自分の名前言いそうになっちゃうね」
「そう? あー、あたしもそうなるかな」
 電話をかけてくるとき、ミサコは偽名を使う。ミサコの苗字、「玖塚」というのは珍しい名前だった。「玖塚美沙子」は先月のはじめに亡くなっている。
「うん」
「ん」
「……学校どう?」
 九月七日。一週間経って、ようやく夏休み気分が抜けた感じだった。
「んー、……カズミが居心地悪そうかな」
「ん……」
「あんたがカズミの横にいないのがなんかね、変な感じ」
 ミサコの右隣がカズミのいつものポジションだった。あたしのポジションは、ミサコの左隣か、二人の少し後ろ。
「そっか……。まあ、すぐに慣れるよ」
 慣れない。
「慣れないよ」
「ん……、それもちょっと嬉しくはあるけど」
 少し笑う。
「ひどいねえ」
「ん、や、ごめん。……えっと、もう宿題終わった?」
「あー、ちゃんとカズミのを写した」
「たまには自分でやんなよ」
 あはは、と笑い声。
「それ、あんたに言われたくないな」
 笑い合って、それから自然と黙り込んだ。しばらくの間、ただ沈黙を聞く。あたしはどこかで予感していたのだと思う。やがてミサコがかすれた声で言う。
「あのね……」
 また黙り込む。
「何?」
 あたしは促す。
「もう、そろそろね」
「うん」
「……終わろうかなって、思う」
「……そう」
「うん」
「そっか」
「うん」
 ミサコが死者に戻る。一度死んだ人間が生き返り、けれどそのまま生きていくことはできない。胸の奥がひやりとする。怖くなる。いまさら。
「カズミには言ったの?」
「うん、さっき電話で」
「……ん」
「泣かれちゃった」
「うん、まあ。……カズミは何て?」
「いやだって」
「あー、うん」
「それから、会いたいって」
「……会えないの?」
「んー……、なんか揺らいじゃいそうで。それに、においとか、けっこうひどいから。……薬の」
「あたしも会いたいけど」
「うん」
「会いたい」
「……あの、ね」
「うん?」
「えと……、綺麗な私を憶えておいてほしい……とかは駄目?」
 一瞬だけ息をとめる。電話では姿は見えない。においもわからない。ミサコと会ったのは夏休み中のこと。九日前。そのときでも薬のにおいが漂っていた。防腐剤のようなにおい。
「……駄目じゃないけど。……わからなくは、ないけど」
 わかりたくない。そう言いかけて、あたしだったら、と考える。いつの間にか握り締めていた手をそっと開く。ベッドのシーツに汗をこすりつける。
「……たぶん、夏の、夏休みの間だけのものだったんだと思うの。今は……、無理矢理生きてる感じで――」
「ごめん」
 子機を耳からはずして、ふうと息を吐く。電話を戻すと、「ごめんね」と呟く声が聞こえた。あんたがあやまんな、と口の動きだけで言う。あんたがあやまる必要はない。もう一度子機をはずし、深呼吸をしてから、なるべく軽い声を出した。
「それにしてもさ、『綺麗な私』なんて恥ずかしくない?」
「ん……、今恥ずかしいです」
 照れくさそうに答えたミサコをからかい、それからテレビの話をした。ミサコは今見ているドラマの続きが見られないのが少し残念だと言った。けれど、そんなに執着はしてないようだった。好きなタレントの話をして、好きなタイプの男子の話をして、夏休みに遊んだ少年と少女のことを話した。
「カズミがロリで、アヤコがショタだったなんてね」
「ん? ショタって?」
「ロリコンの男の子版。小さな男の子が好き」
「……て言うか、それはあんただろう」
「え? なんで?」
「ほっぺにちゅーされたって言ってたよ」
「えっ?」
「まったく、いやらしい子だわ」
 お嬢様風に言った。
「言っちゃ駄目って言ったのに……」
 口を尖らすミサコの姿が目に浮かんだ。
 カズミの話。同じクラスの子の話。担任の先生の話。夏休み前と大して変わらない、学校の話。日常。ミサコが失ったもの。ミサコは相槌を打ちながら、失ったもののことを静かに聞いた。あたしが言葉に詰まると先を促した。穏やかに、楽しそうに。
「あー、釣りしたいなー」
 あたしがひと通り話し終えると、ミサコは自分の欲望を口にした。
「ほんとおっさんくさいな、あんた」
「釣りいいよ。何言ってんの。そんなんじゃ松方弘樹みたいになれないよ」
「なりたくないって」
「そんな、ひどい……。あやまれ! 弘樹さんにあやまれ!」
「ツレかよ、松方弘樹は」
「それはいいとして」
 振っておいて流された。
「ええんかい。……えっと、何?」
「アヤコ、釣りしない?」
「え?」
「釣りしたらいいよ。竿とかあげるから」
「あー、うん。……んー、もらっとく。するかどうかわからないけど。一応」
「もらっといて。……カズミにもね。言おうとしたら泣かれちゃって」
「わかった。言っとく」
「うん」
「オッケ」
 ふう、と息をつく音が聞こえた。ミサコの息。終わりだな、と、あたしの冷静な部分が告げる。ミサコは今、自分のことを終わらせた。自然と黙り込む。沈黙が少し長く続いて、耳鳴りがして、消える。
「あのね……」
 ミサコが呟いて、また黙る。
「聞くよ」
 あたしはそれだけ言って、ミサコを待った。しばらくして、またミサコの声を聞く。
「……カズミもだけど、親も、両親ともに泣かしちゃって、何だか、何ていうか。……うまく言えないかなぁ」
「いいよ、聞くから」
「ん、ありがと。ごめん。……えっと、たぶんね、私は、何もしないっていうか、何にもなく生きていくほうだと思うんだ」
「うん?」
「このまま毎日だらだら過ごして、高校生になって、卒業して、就職して、たぶん地元で、もしかしたら結婚して、このまま何にもなく生きていくんだろうなって。……でもそれで、そのあいまに釣りができたらいいかなって、そんなね」
「そっか」
「うん。向上心とか私ないから、ずっとこのままここで暮らしていければいいかなって」
「そう、……そっか」
「で、あの……、死んだのも、それが早まっただけで、何ていうか」
「……うん」
「たぶん、私はずっとこのまま何にもなく、ほんとに何にもなく生きていったんだと思う。だから、そんな泣かれると、困るっていうか、戸惑うっていうか」
「うん」
「だから、そんなに悲しまなくていいって……思った」
「……うん。でも」
「そういうことじゃないってのも、わかる。私も誰かが死んだら悲しいし」
「そっか」
「すごくいやだし……、怖い」
「……そうだよなぁ」
「うん」
「ん」
 またしばらく沈黙を聞く。今度のそれはそう長くなく、すぐにミサコが「じゃあ」と言った。
「……うん、じゃあ」
「またね」
 泣きそうになる。一度強く奥歯をかみ締め、声が震えるのを抑えた。
「ん、また」
「えーと、七十年後かな」
「え? ……ああ、八十四歳?」
「そのくらいじゃなかった? 日本人の平均寿命って」
「七十四くらいじゃなかったっけ」
「んー、そう?」
「いや、はっきりとは覚えてないけど」
「んー、じゃあ間取って、七十九?」
「なんだそれ。……長いな」
「長いよ。そりゃ」
「まったく」
 あたしはため息をつきながら言った。あはは、とミサコは笑う。
「……うん。じゃあ、またね」
「ん、また」
「それじゃあ」
「ん、それじゃ」
 あっさりと電話は切れる。ふう、と息をついて、虚空を見つめる。何もない空間。あたしは子機を握り締める。
「……六十五年後」
 ミサコとまた会うまでの時間。あたしにとっては、永遠と呼んでもいいくらいの時間。目を閉じるとミサコの顔が浮かび、涙の気配を感じて、すぐに開けた。天井を眺める。人の顔のような木目。目でその輪郭をなぞっていく。
 ミサコは「釣りしたらいいよ」と言った。「竿とかあげるから」と。言われた通りに、あたしは釣りをするのだろう。そう遠くない未来、竿を投げながら玖塚美沙子を思い出し、悲しみに似た気持ちに浸るのだろう。そうやって自分を慰める。たぶん、カズミと一緒に。
 あたしは子機を投げ出し、ベッドにうつぶせになった。電話していたときには気づかなかったテレビの微かな音が聞こえてくる。下には兄がいる。何でもない日常。音。叫びたい衝動に駆られる。喉の奥で鳴く。深く息をついてから枕を引き寄せ、そこに顔を埋めた。テレビの音が聞こえてくる。ミサコの声はもう聞こえない。ミサコは「そんなに悲しまなくていい」と言った。ふいに喉が震える。漏れる嗚咽を枕で殺した。


クヅカ12
 光に目を細める。水の上に横たわり、ただゆらゆらと揺れる。腕と足は水に浸り、胸と顔だけが空気に触れている。日は変わらず空にあって、変わらず水面を照らしている。
 深く息を吸い込み、水をかいて向きを変えると、体はするりと水に沈み込んだ。足が一瞬だけ光と空気を感じ、またすぐに水の感触を得る。水は滑らかでやわらかく、それから冷たい。
 目が水の底を見つめる。砂があり、人型の砂があり、静かに横たわる人々がいる。人に吐き出された空気が歪みながら昇っていく。空気は水を揺らし、光を散らしている。
 目が彼女を捜す。体は水を滑り、また昇り、水を乱しながら動き続ける。やがて見つけた彼女は砂に横たわっていて、口を閉じ、もうすでに空気を吐くのをやめている。沈みながら近寄ると、気づいた彼女が静かに微笑んだ。その笑みの奥に微かな戸惑いがある。手を伸ばして触れた彼女の頬は冷たく、撫でた唇もやわらかではない。
 顔を寄せ、唇を重ねると、そこに砂の感触があった。微かな恐れを感じながらも唇を開け、ゆっくりと息を吹き込む。彼女は少しためらったが、息を静かに飲み込んだ。こくりと喉が動く。唇を離して微笑むと、彼女も微笑み、見つめ合う。
 彼女の目が顔を近づけるように合図する。いたずらっぽい光がある。それに従いまた顔を寄せると、彼女は唇を薄く開け、ふうっと細く息を吐いた。小さな泡が連なり、ぱらぱらとぶつかり、思わず顔を背ける。泡はゆっくりと昇っていき、やがて水面にたどり着く。視線を戻すと、彼女はくすくすと楽しそう笑った。
 彼女はときどきこんな意地悪をする。すぐに彼女の手が伸びてきて、するりと首筋をなぞり、頬を撫でる。触れてきた手は冷たく、思わずびくりとする。彼女は口元に笑みをたたえながら頬を撫で続ける。
 くすぐったさに身をよじる。楽しそうな彼女の表情に笑みをこぼす。
 彼女の指先にも砂の感触がある。小さな不安が胸に灯る。彼女がいつまで砂にならずにいるのかわからない。彼女といつまで会っていられるのかわからない。けれど今は、彼女の楽しそうな様子にただ心を躍らせる。


 鍵は開いていた。彼女は「ただいま」と声をかけ、後ろ手で玄関の戸を閉めた。けれどあるはずの返事はなく、家の中はしんと静まり返っている。彼女は首を傾げながら鍵を閉め、ちゃんと閉まっていることを確かめてから靴を脱いだ。板張りの床に足を乗せる。居間に行き、もう一度、今度はやや控えめな声で「ただいま」と告げた。やはり返事は返ってこない。居間の電気は点いておらず、壁にあるスイッチに指を添える。電気を点ける直前、それに気づいて彼女はびくりとした。
「……ああ」
 夕刻を少し過ぎた薄暗い居間、ソファの上で兄がだらしなく眠りこけていた。彼女は苦笑を浮かべ、投げ出した兄の足をしばらく眺めた。
 今日の朝、兄がバイトで遅くなると言っていたのを彼女は憶えている。ソファに一歩近づいて、本当に兄なのかどうか、その顔を覗き込む。輪郭。閉じた瞼。鼻筋。唇。やはり兄であるようで、彼女は軽く唇をかんで少し考え込む。
 実は兄は未確認な飛行物体にさらわれていて、今ここにいるのはよく似た偽者――中に小さな宇宙人が入っていてレバーで操っている――なのだという頭の悪い考えが浮かぶ。もちろんそれはただの冗談で、シフトが急に変わったとかそんなところだろうと彼女はそう判断した。
 もう一度壁のスイッチに手を伸ばし、しかし思い直してその手を引っ込める。薄暗いままの居間を横切り、奥の台所に向かう。彼女は兄をちらりと見やり、まだ目を覚ましていないことを確かめてからシンクで手を洗った。しばらく水を出しっぱなしにして手を冷やしていく。手に乱された水がシンクを叩く。ぱらぱらと雨に近い音がする。頃合いを見て手を水から離し、頬で温度を確かめる。その冷たさにひとつ頷くと、水をとめ、制服のスカートで手をぬぐい、またソファのところまで戻った。
 兄の頭の横に腰を下ろし、その髪に手を這わせる。短い髪が指の間を滑っていく。その感触に彼女は小さく微笑んだ。しばらく撫でていくと、やがて兄が薄く目を開け、ぼんやりと彼女を見つめる。何も映してなさそうな目に、少し首を傾げて、けれど彼女はさほど気にせず手を滑らせていく。
「……カ」
 ふいに兄は何かを呟く。寝言のようなぼんやりとした声。はっきりとは聞き取れなかったそれは、誰かの名前なのだと彼女は思う。兄はその人の夢でも見ているのだろう。幸せな夢だといいと仄かに願いながら、彼女は兄の頭を撫で続け、兄はまた静かに眼を瞑った。
 冷たい手は次第に温くなり、ゆっくりとその動きをとめる。彼女は自分の手を見つめる。ふと何かを思い出しかけて、けれど、意識する前にそれは消える。あごに手をやり、記憶の中からそれを手繰り寄せようとするけれど、しばらくもしないうちに、彼女の口からはあくびが漏れた。
 薄暗い部屋は眠気を誘う。ソファに体を預けてまたあくびをした彼女は、一度浮かんだそれを捕まえることなく、兄と同じように静かな寝息を立てはじめた。
 一時間ほどして母親が帰ってくる。母親はすぐに居間の明かりを点ける。それから居間の中を見渡し、ソファで眠りこける兄妹を見つけてつい苦笑する。兄妹に目を覚ます気配はなく、子供に甘い親は、もう少し眠らせてやろうと寝室から持ってきたタオルケットをかけてやり、また明かりを消した。
 薄暗い部屋の中、タオルケットに包まりながら、彼女は少し不思議な夢を見る。
 砂と水の夢。やけに涼しげで、幸せな夢。彼女は楽しそうに、くすぐったそうに笑う。


サツキ
 眠りから覚めたとき、あるのは雨音と水音。たまにサツキの足音がすることもある。今日がその日のようで、ペタペタと濡れた足音が階段を上ってくるのが聞こえた。湿気と年季で立て付けが悪くなった戸を開け、まるで遠慮なく部屋の中に入り込み、ベッドの上でまだ目を瞑ったままの俺の肩を掴んでゆるゆると揺する。ふいにクーッとサツキの腹が鳴り、思わず口の端で笑ってしまった俺を、彼女はさらにぐいぐいと激しく揺り動かした。
「……起きるよ」
 目を開けて俺は言った。
「腹減った」
 サツキはとても簡潔な自己主張をした。
「おはよう」
「腹減った」
「……何食いたい?」
「ラーメン」
 サツキが口元で笑った。
 俺はベッドから降りて手を伸ばし、部屋の中に干してあるものの中から、そう湿気ってないシャツを選んでハンガーからはずした。着替えた。雨続きでなかなか洗濯物が乾かず、選んだはずのシャツが肌に張り付く。湿っぽい肩を掻きながらベッドに戻り、枕の下から護身用のナイフを取り出して短パンのポケットに仕舞った。一般的にバタフライナイフと呼ばれる若気の至り風味漂う思い出の品で、持ち歩くには少々恥ずかしいものだが、他に適当なのを持っていない。
「じゃあ、行くか」
「おう」
 彼女はいつも元気だ。
 階段にはサツキの足跡がはっきりと付いていた。降りていくと階段はミシミシと湿っぽい音を立てる。長々と降り続ける雨。川や下水や地面や草木が吸収しきれなかった雨水で、階段の二段目までが浸っていた。気にせず一階に降り、ジャボジャボと水を引っ掻くように歩いて玄関先に向かった。サツキも少し遅れてついてくる。ガキでチビなサツキは単純に俺より歩くのが遅い。
 玄関先の水面にビーチサンダルがぷかぷかと浮いている。あまり外出しない俺より、普段から外をうろちょろしているサツキのほうがビーチサンダルを履くことに慣れている。水に左右のゆるいキックをかますかのようなツーアクションでビーチサンダルを履き終えたサツキは、ジタバタと苦労している俺の正面に回り込んで、珍しい生き物を発見したかのようにじっと見つめてくる。
「見んなよ」
「見る」
「あー、くそ」
 ようやくビーチサンダルを履いた俺は、またジャボジャボと水の中を歩き、外の水の抵抗を感じながら玄関の戸を開けた。流れ込んできた水に対して俺はわずかに踏ん張る。サツキが「おお」と声を上げながら俺のシャツの裾を掴んだ。シャツを引っ張るようにしてサツキが近寄る。俺は水の流れがおさまるのを待ってから、「行くぞ」と声を掛けた。
「おう」
 サツキは一旦シャツを放し、俺の短パンのベルトを通す穴に指を引っ掛けた。水位は俺の股下辺りだが、背の低いサツキはちょうどへそ辺りまで水に浸かってしまう。何か掴まるものがあればそのほうが歩きやすいだろう。
 今日は霧雨と小雨の中間辺りだった。ここ十数ヶ月間、絶え間なく雨が降り続けている。たまに日の光は拝めたが、そんな日でも雨がやむことはなかった。異常気象。天変地異。ノアの箱舟。タイトルにそんな言葉を使ったテレビ特番が最初のころは組まれたりした。マスコミは楽しそうに危機感を煽り、都会ではイベント的な暴動が起こり、すぐに飽きたようにおさまり、そうして静かに治安が悪くなった。
 どこからかラジオの音が漏れ聴こえてくる。今ではラジオを聴いている人間のほうが多い。テレビ局よりラジオ局のほうが湿気に強かったらしい。俺はサツキの歩調に合わせてゆっくりと歩く。いろんなものがぷかぷかとお気楽に浮いている。千切れたタオルや靴下、コンビニの制服、下着、松屋の幟、蕎麦屋のお品書き、スニーカー、ビーチサンダル、ポケットティッシュの袋、ガム、避妊具、折れた傘、鬘、いたずら書きされたマネキンの腕、うつ伏せになった男――。
 水面にうつ伏せの人間が浮いているのは珍しかった。俺はその男に近寄る。サツキもついてくる。ある程度の距離を置いて立ち止まった。男の周りの水はほのかに赤くなっていた。腰の辺りに刺し傷。雨が傷口を綺麗に洗い流していた。俺はポケットの中のナイフを握り締める。治安が悪いといっても、人の死体はまだそれほどポピュラーなものじゃない。あまり顔を動かさないようにして辺りを見渡す。この死体を作った人間はまだこの近くにいるだろうか。
 サツキが俺のすぐ横に来て、死体と俺を交互に見比べた。三度ほど視線を往復させ、そして「ん?」と首を傾げる。子供っぽい仕草。「何か面白いものでもあるの?」とそう言いたげな表情だった。サツキは俺よりも死体に慣れているのかもしれない。俺が知らないだけで、この片田舎でももう死体はさほど珍しいものではなくなっているのかもしれない。
 わからないが、とりあえず俺は安心させようとサツキの頭に手を置いた。サツキは頭を動かして軽く嫌がってみせるが、表情を見る限り、本当に嫌がってはいない。
「……ラーメン」
 口を尖らせてサツキが言う。
「ああ、そうだな」
 俺は軽く口元で笑ってみせた。まあ、とりあえず飯を食おう。


 店の親父は無愛想に「いらっしゃい」と言った。チェーン店ではない昔ながらのラーメン屋。長雨のせいで飲食店が次々と閉めていく中、このラーメン屋だけは黙々と通常営業を続けていた。店内には数人の顔見知りになった常連客がいる。そのうちのひとりが俺の後ろのサツキを見つけて、「おう」と気軽に声を掛けた。サツキも俺の短パンから指を離し、その手を上げながら「おう」と応えた。続けて数人からも声が掛かる。
 奥のカウンターに座り、ラーメンを二つ注文する。「あいよ」と親父は鍋の中に麺を投げ込む。どんぶりを軽く水洗いし、中に醤油ダレを垂らし入れる。サツキはそれらの作業を楽しそうに眺めていた。足を揺らし、チャプチャプと小さな水音を立てている。店の椅子は、水面よりも十センチほどだけ高い。水位は日ごとに上がっているから、椅子が水の中に沈んでしまう日もそう遠くないだろう。そのときになってもこの店は営業しているのだろうか。変わらず開いているような気もするし、あっさりと閉めてしまうような気もする。
「あいよ、ラーメン二丁ね」
 さっきよりの愛想よく店の親父は言い、俺とサツキの前にどんぶりを置いた。どんぶりの中の麺とスープが湯気を立てている。麺とスープと刻み葱とチャーシュー。彩の少ない単純なラーメンだった。降り続くこの雨のせいで、やはり食糧事情は厳しくなっているらしい。
 待望のラーメンを前に、サツキがちらりと横目で俺を見る。俺が頷いてやると、サツキは少し笑って手を合わせ、行儀よく「いただきます」を言い、鼻歌でも歌い出しそうな弾んだ仕草で箸立てに手を伸ばした。またクーッと腹が鳴り、サツキは一瞬止まり、俺を見て、また笑って、それから箸を取った。
 割り箸はもうこの店では使っていない。黒い安っぽい箸の束の中に一組だけ茶色っぽい箸が混じっている。茶色の箸の上のほうに小さな白いシールが貼ってあり、そこに小さな黒い文字で「サツキ」と書いてあった。この店でサツキ以外の女性を見かけたことはない。
 サツキはスープから麺を持ち上げ、何度も息を吹きかけて冷ましていく。猫舌なのにもかかわらず、彼女はやけにラーメンが好きだった。充分に冷ましたところでおそるおそる麺に口をつけずるずるとすする。麺の下のほうはスープに浸かったままで、まだ熱く、サツキははふはふと顔を赤くしながら箸と口を動かしていく。
 俺もサツキに倣い、「いただきます」と手を合わせた。俺はサツキとは違って猫舌ではないので、麺に二、三度息を吹きかけたところでずるずるとすする。ラーメンは熱いほうがいい。薄口であまり深みのある味ではなかったが、ちゃんとラーメンの味がした。むしろ少ない――少なくなってきたであろう材料で、こうきちんとしたラーメンを作る親父の腕を称えるべきかもしれない。
 一心不乱に、というほどではないにしろ、そこそこ集中してラーメンを食っていると、ふいに「ありがとー」とサツキの嬉しそうな声が聞こえた。顔を上げると、カウンターの中の親父が照れていた。サツキはどんぶりの中を見つめている。そのどんぶりには、真新しいチャーシューが一枚追加されていた。
「ああ……、すいません」
 俺が言うと、親父は「いや、別に……」と目をそむけながら言った。なかなか可愛らしい親父である。
 俺もサツキもスープまで綺麗に飲み干し、「ごっそさん」「ごちそうさまー」と数分のタイムラグを隔て、手を合わせた。
「行くか」
「おう」
 満足そうにサツキは頷く。滑り落ちるように席を立ち、またへその辺りまで水に浸かった。遅れて立ち上がった俺にチャプチャプと近寄り、短パンのベルトの穴に指を引っ掛ける。
「サツキ、旨かったか?」
 常連客のひとりが親父の代わりに聞いた。
「おう、旨かった」
 サツキは嬉しそうに答えた。俺は財布を取り出し、照れて苦虫を噛み潰したような顔をしている親父に湿気った紙幣を差し出す。「まいど」とお釣りを用意する親父を眺めながら、もう少し値上げしてもいいんじゃないかとも思ったりする。だが、この頑固親父にそんなことを言おうものなら、機嫌を損ね、意地になって今の値段のままやっていくことだろう。怒鳴られるのも嫌なので、俺は何も言わずにお釣りを受け取った。


 さっきよりも雨が強くなっていた。傘はない。雨の日には傘を差す習慣があったことを、たまに懐かしく思い出す。短パンが軽く引っ張られる感触がどこか心地よい。ゆっくりと歩く。ラジオの音が漏れ聴こえてくる。腰に刺し傷のあった男の死体は、流されたか、誰かが持っていったか、生ける屍になったかで、見える範囲ではいなくなっていた。人影はない。雨音と水音とラジオの音が漂っている。ナイフが手の熱を吸い取り、生ぬるくなっている。
 家の前まで来て俺は立ち止まり、サツキは俺の短パンから指を放し、そのまま歩き続けた。ジャブジャブと水の中を歩き難そうに進んでいく。気まぐれで泊まっていくときもあるが、今日はそんなつもりはないらしい。サツキは手を振ったりはしない。「じゃあまた」とか「バイバイ」とか、そういった別れの挨拶めいた言葉も、いつからか言わなくなっていた。
「サツキ」
 いつもなら俺はそんなサツキの後姿をただ見送るだけなのだが、今日は頭の片隅に男の死体の映像があって、思わず呼び止めていた。
 サツキは立ち止まり、振り向いて、「何?」と小首を傾げる。雨に目を細めている。顔の前に流れていた前髪を指でかきあげる。ラーメンを食った直後で満腹しているためか、少し眠そうに見えた。
「何?」
 黙っている俺に、サツキはもう一度言った。
「あー……」
 呼び止めたものの、具体的な何かを考えていたわけではなく、ただ俺は曖昧な笑みを浮かべた。
 サツキはあくびをして、退屈したように空を見上げる。青みを帯びた灰色の雲が空一面を覆っている。太陽は雲の向こう側にあり、かろうじて雲を透過してきた光は弱々しく、何かもやもやとした気分にさせられる。最後にはっきりとした黒い影を見たのは、いつのことだっただろう。
「泊まってかねえ?」
 俺はストレートに言った。サツキはひとつ長い瞬きをして、小首を傾げ、あくびをかみ殺しながら「んー」と唸った。目を落とし、水面を見つめる。眉間にしわが寄る。悩み迷っているその様子に、猫を思う。餌をたかり終えた野良猫が、その報酬代わりにしばらくその場にとどまってやるかどうかを悩む。餌の提供者に、自分の背中やあごを撫でさせてやるかどうかを迷う。
 サツキは唸りながらもゆっくりと俺のほうに近寄ってきて、
「あっ」
 こけた。
 ビシャッと水飛沫が上がった。
 眠いのと、考えながらなのと、元々チビなのとが絡み合った結果、だろう。もしかすると水の中で何かにつまずいたのかもしれない。俺は軽く笑いながら駆け寄り、水の中のサツキの腕を掴んで立ち上がらせた。
「大丈夫か?」
「おう」
 応えてサツキは、ふー、と大きく息を吐いた。俺はサツキの乱れた髪を整える。サツキは照れたように笑う。しかし、すぐに真顔になる。
 腰の辺りに、何かが押し付けられる感触があった。硬い感触。目を落とすと、バタフライナイフの柄が俺の腰に触れていた。俺のポケットの中にあったはずのナイフが、いつの間にかサツキの手の中にある。掏られたその感触はなかった。刃は仕舞われている。腰にナイフを埋め込まれた自分の姿を想像しながら、俺はサツキを見下ろした。サツキが悪戯っぽく笑う。
「ここ、腎臓」
 静かに言う。
「……ん?」
「わりと急所」
 わりと、でもなく急所。
「だから大丈夫」
「……そっか」
 何が大丈夫なのかよくわからなかったが、とりあえず俺は頷いた。サツキは頷き返し、俺の腰からナイフを離す。
 ラーメン屋に向かうときに見かけた男の死体には、刺し傷があった。腰に。さっきまでナイフの柄で触れられていた部分とおなじところに。サツキくらいの身長なら、腎臓は、喉や胸よりもずっと狙いやすい急所だろう。
「ちょっとさびてる」
「ん?」
「ここ」
 サツキはナイフの継ぎ目のところを指差した。確かに、茶色い錆がぽつぽつと浮いている。
「ちゃんと手入れしとかないと、いざってとき困るよ」
「いざってとき……、こないといいんだけどな」
「……うん、そうだねえ」
 サツキは遠い目をしながら頷いた。その表情に少しぞくりとする。
「行きのときに見かけたアレ――」
「アレ?」
「男の死体」
「ん……、違う」
「ああ」
「あたし……じゃないよ」
「わかった」
「うん」
 サツキはナイフを俺のポケットに戻した。俺はサツキの頭に手を乗せ、ぐっしょりと濡れたその髪を、手櫛で整えながら撫でつけていく。サツキは軽く嫌がってみせるが、その表情は、頬が緩むのを我慢しているようにも見えた。
「怖かったら――」
 ふいにサツキは顔を上げ、ほぼ真下から俺を見つめる。
「うん?」
「――いっしょにいてあげてもいいよ。怖かったら」
 からかうでもない、ごくあたりまえのことのようにサツキは言った。少し大人びた子供の表情。俺は数秒だけ考え、「いや、別にいい」と軽く意地を張って首を振った。
「そう?」
「ああ」
 俺はポケットに手を突っ込み、そこにあるナイフの感触を確かめた。触っていると妙に安心するそれを取り出し、「よっ」という掛け声とともに、適当な方向に放り投げた。
 ナイフは放物線を描き、やがて遠くの水面に波紋が広がる。かすかに遅れて、チャポンと小さな水音が聞こえた。
「あーあ」
 勿体なさそうにサツキが言った。
「まあ、いいじゃん」
「いいけどさ」
 サツキは俺を見上げ、からかうようにニヤニヤと笑い掛けてくる。
「何だよ?」
「いや、別にー」
「……雨、やまないな」
 俺は誤魔化すように空を見上げた。
「やっぱり泊まってく」
 サツキは俺の短パンに指を引っ掛けた。
「そう?」
「うん、眠い」
「……ああ、眠いな」
 雨続きの日々は鬱陶しいが、雨音のBGMは、何故だかよく眠れる。

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