長めの話を置いています
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サツキ
 眠りから覚めたとき、あるのは雨音と水音。たまにサツキの足音がすることもある。今日がその日のようで、ペタペタと濡れた足音が階段を上ってくるのが聞こえた。湿気と年季で立て付けが悪くなった戸を開け、まるで遠慮なく部屋の中に入り込み、ベッドの上でまだ目を瞑ったままの俺の肩を掴んでゆるゆると揺する。ふいにクーッとサツキの腹が鳴り、思わず口の端で笑ってしまった俺を、彼女はさらにぐいぐいと激しく揺り動かした。
「……起きるよ」
 目を開けて俺は言った。
「腹減った」
 サツキはとても簡潔な自己主張をした。
「おはよう」
「腹減った」
「……何食いたい?」
「ラーメン」
 サツキが口元で笑った。
 俺はベッドから降りて手を伸ばし、部屋の中に干してあるものの中から、そう湿気ってないシャツを選んでハンガーからはずした。着替えた。雨続きでなかなか洗濯物が乾かず、選んだはずのシャツが肌に張り付く。湿っぽい肩を掻きながらベッドに戻り、枕の下から護身用のナイフを取り出して短パンのポケットに仕舞った。一般的にバタフライナイフと呼ばれる若気の至り風味漂う思い出の品で、持ち歩くには少々恥ずかしいものだが、他に適当なのを持っていない。
「じゃあ、行くか」
「おう」
 彼女はいつも元気だ。
 階段にはサツキの足跡がはっきりと付いていた。降りていくと階段はミシミシと湿っぽい音を立てる。長々と降り続ける雨。川や下水や地面や草木が吸収しきれなかった雨水で、階段の二段目までが浸っていた。気にせず一階に降り、ジャボジャボと水を引っ掻くように歩いて玄関先に向かった。サツキも少し遅れてついてくる。ガキでチビなサツキは単純に俺より歩くのが遅い。
 玄関先の水面にビーチサンダルがぷかぷかと浮いている。あまり外出しない俺より、普段から外をうろちょろしているサツキのほうがビーチサンダルを履くことに慣れている。水に左右のゆるいキックをかますかのようなツーアクションでビーチサンダルを履き終えたサツキは、ジタバタと苦労している俺の正面に回り込んで、珍しい生き物を発見したかのようにじっと見つめてくる。
「見んなよ」
「見る」
「あー、くそ」
 ようやくビーチサンダルを履いた俺は、またジャボジャボと水の中を歩き、外の水の抵抗を感じながら玄関の戸を開けた。流れ込んできた水に対して俺はわずかに踏ん張る。サツキが「おお」と声を上げながら俺のシャツの裾を掴んだ。シャツを引っ張るようにしてサツキが近寄る。俺は水の流れがおさまるのを待ってから、「行くぞ」と声を掛けた。
「おう」
 サツキは一旦シャツを放し、俺の短パンのベルトを通す穴に指を引っ掛けた。水位は俺の股下辺りだが、背の低いサツキはちょうどへそ辺りまで水に浸かってしまう。何か掴まるものがあればそのほうが歩きやすいだろう。
 今日は霧雨と小雨の中間辺りだった。ここ十数ヶ月間、絶え間なく雨が降り続けている。たまに日の光は拝めたが、そんな日でも雨がやむことはなかった。異常気象。天変地異。ノアの箱舟。タイトルにそんな言葉を使ったテレビ特番が最初のころは組まれたりした。マスコミは楽しそうに危機感を煽り、都会ではイベント的な暴動が起こり、すぐに飽きたようにおさまり、そうして静かに治安が悪くなった。
 どこからかラジオの音が漏れ聴こえてくる。今ではラジオを聴いている人間のほうが多い。テレビ局よりラジオ局のほうが湿気に強かったらしい。俺はサツキの歩調に合わせてゆっくりと歩く。いろんなものがぷかぷかとお気楽に浮いている。千切れたタオルや靴下、コンビニの制服、下着、松屋の幟、蕎麦屋のお品書き、スニーカー、ビーチサンダル、ポケットティッシュの袋、ガム、避妊具、折れた傘、鬘、いたずら書きされたマネキンの腕、うつ伏せになった男――。
 水面にうつ伏せの人間が浮いているのは珍しかった。俺はその男に近寄る。サツキもついてくる。ある程度の距離を置いて立ち止まった。男の周りの水はほのかに赤くなっていた。腰の辺りに刺し傷。雨が傷口を綺麗に洗い流していた。俺はポケットの中のナイフを握り締める。治安が悪いといっても、人の死体はまだそれほどポピュラーなものじゃない。あまり顔を動かさないようにして辺りを見渡す。この死体を作った人間はまだこの近くにいるだろうか。
 サツキが俺のすぐ横に来て、死体と俺を交互に見比べた。三度ほど視線を往復させ、そして「ん?」と首を傾げる。子供っぽい仕草。「何か面白いものでもあるの?」とそう言いたげな表情だった。サツキは俺よりも死体に慣れているのかもしれない。俺が知らないだけで、この片田舎でももう死体はさほど珍しいものではなくなっているのかもしれない。
 わからないが、とりあえず俺は安心させようとサツキの頭に手を置いた。サツキは頭を動かして軽く嫌がってみせるが、表情を見る限り、本当に嫌がってはいない。
「……ラーメン」
 口を尖らせてサツキが言う。
「ああ、そうだな」
 俺は軽く口元で笑ってみせた。まあ、とりあえず飯を食おう。


 店の親父は無愛想に「いらっしゃい」と言った。チェーン店ではない昔ながらのラーメン屋。長雨のせいで飲食店が次々と閉めていく中、このラーメン屋だけは黙々と通常営業を続けていた。店内には数人の顔見知りになった常連客がいる。そのうちのひとりが俺の後ろのサツキを見つけて、「おう」と気軽に声を掛けた。サツキも俺の短パンから指を離し、その手を上げながら「おう」と応えた。続けて数人からも声が掛かる。
 奥のカウンターに座り、ラーメンを二つ注文する。「あいよ」と親父は鍋の中に麺を投げ込む。どんぶりを軽く水洗いし、中に醤油ダレを垂らし入れる。サツキはそれらの作業を楽しそうに眺めていた。足を揺らし、チャプチャプと小さな水音を立てている。店の椅子は、水面よりも十センチほどだけ高い。水位は日ごとに上がっているから、椅子が水の中に沈んでしまう日もそう遠くないだろう。そのときになってもこの店は営業しているのだろうか。変わらず開いているような気もするし、あっさりと閉めてしまうような気もする。
「あいよ、ラーメン二丁ね」
 さっきよりの愛想よく店の親父は言い、俺とサツキの前にどんぶりを置いた。どんぶりの中の麺とスープが湯気を立てている。麺とスープと刻み葱とチャーシュー。彩の少ない単純なラーメンだった。降り続くこの雨のせいで、やはり食糧事情は厳しくなっているらしい。
 待望のラーメンを前に、サツキがちらりと横目で俺を見る。俺が頷いてやると、サツキは少し笑って手を合わせ、行儀よく「いただきます」を言い、鼻歌でも歌い出しそうな弾んだ仕草で箸立てに手を伸ばした。またクーッと腹が鳴り、サツキは一瞬止まり、俺を見て、また笑って、それから箸を取った。
 割り箸はもうこの店では使っていない。黒い安っぽい箸の束の中に一組だけ茶色っぽい箸が混じっている。茶色の箸の上のほうに小さな白いシールが貼ってあり、そこに小さな黒い文字で「サツキ」と書いてあった。この店でサツキ以外の女性を見かけたことはない。
 サツキはスープから麺を持ち上げ、何度も息を吹きかけて冷ましていく。猫舌なのにもかかわらず、彼女はやけにラーメンが好きだった。充分に冷ましたところでおそるおそる麺に口をつけずるずるとすする。麺の下のほうはスープに浸かったままで、まだ熱く、サツキははふはふと顔を赤くしながら箸と口を動かしていく。
 俺もサツキに倣い、「いただきます」と手を合わせた。俺はサツキとは違って猫舌ではないので、麺に二、三度息を吹きかけたところでずるずるとすする。ラーメンは熱いほうがいい。薄口であまり深みのある味ではなかったが、ちゃんとラーメンの味がした。むしろ少ない――少なくなってきたであろう材料で、こうきちんとしたラーメンを作る親父の腕を称えるべきかもしれない。
 一心不乱に、というほどではないにしろ、そこそこ集中してラーメンを食っていると、ふいに「ありがとー」とサツキの嬉しそうな声が聞こえた。顔を上げると、カウンターの中の親父が照れていた。サツキはどんぶりの中を見つめている。そのどんぶりには、真新しいチャーシューが一枚追加されていた。
「ああ……、すいません」
 俺が言うと、親父は「いや、別に……」と目をそむけながら言った。なかなか可愛らしい親父である。
 俺もサツキもスープまで綺麗に飲み干し、「ごっそさん」「ごちそうさまー」と数分のタイムラグを隔て、手を合わせた。
「行くか」
「おう」
 満足そうにサツキは頷く。滑り落ちるように席を立ち、またへその辺りまで水に浸かった。遅れて立ち上がった俺にチャプチャプと近寄り、短パンのベルトの穴に指を引っ掛ける。
「サツキ、旨かったか?」
 常連客のひとりが親父の代わりに聞いた。
「おう、旨かった」
 サツキは嬉しそうに答えた。俺は財布を取り出し、照れて苦虫を噛み潰したような顔をしている親父に湿気った紙幣を差し出す。「まいど」とお釣りを用意する親父を眺めながら、もう少し値上げしてもいいんじゃないかとも思ったりする。だが、この頑固親父にそんなことを言おうものなら、機嫌を損ね、意地になって今の値段のままやっていくことだろう。怒鳴られるのも嫌なので、俺は何も言わずにお釣りを受け取った。


 さっきよりも雨が強くなっていた。傘はない。雨の日には傘を差す習慣があったことを、たまに懐かしく思い出す。短パンが軽く引っ張られる感触がどこか心地よい。ゆっくりと歩く。ラジオの音が漏れ聴こえてくる。腰に刺し傷のあった男の死体は、流されたか、誰かが持っていったか、生ける屍になったかで、見える範囲ではいなくなっていた。人影はない。雨音と水音とラジオの音が漂っている。ナイフが手の熱を吸い取り、生ぬるくなっている。
 家の前まで来て俺は立ち止まり、サツキは俺の短パンから指を放し、そのまま歩き続けた。ジャブジャブと水の中を歩き難そうに進んでいく。気まぐれで泊まっていくときもあるが、今日はそんなつもりはないらしい。サツキは手を振ったりはしない。「じゃあまた」とか「バイバイ」とか、そういった別れの挨拶めいた言葉も、いつからか言わなくなっていた。
「サツキ」
 いつもなら俺はそんなサツキの後姿をただ見送るだけなのだが、今日は頭の片隅に男の死体の映像があって、思わず呼び止めていた。
 サツキは立ち止まり、振り向いて、「何?」と小首を傾げる。雨に目を細めている。顔の前に流れていた前髪を指でかきあげる。ラーメンを食った直後で満腹しているためか、少し眠そうに見えた。
「何?」
 黙っている俺に、サツキはもう一度言った。
「あー……」
 呼び止めたものの、具体的な何かを考えていたわけではなく、ただ俺は曖昧な笑みを浮かべた。
 サツキはあくびをして、退屈したように空を見上げる。青みを帯びた灰色の雲が空一面を覆っている。太陽は雲の向こう側にあり、かろうじて雲を透過してきた光は弱々しく、何かもやもやとした気分にさせられる。最後にはっきりとした黒い影を見たのは、いつのことだっただろう。
「泊まってかねえ?」
 俺はストレートに言った。サツキはひとつ長い瞬きをして、小首を傾げ、あくびをかみ殺しながら「んー」と唸った。目を落とし、水面を見つめる。眉間にしわが寄る。悩み迷っているその様子に、猫を思う。餌をたかり終えた野良猫が、その報酬代わりにしばらくその場にとどまってやるかどうかを悩む。餌の提供者に、自分の背中やあごを撫でさせてやるかどうかを迷う。
 サツキは唸りながらもゆっくりと俺のほうに近寄ってきて、
「あっ」
 こけた。
 ビシャッと水飛沫が上がった。
 眠いのと、考えながらなのと、元々チビなのとが絡み合った結果、だろう。もしかすると水の中で何かにつまずいたのかもしれない。俺は軽く笑いながら駆け寄り、水の中のサツキの腕を掴んで立ち上がらせた。
「大丈夫か?」
「おう」
 応えてサツキは、ふー、と大きく息を吐いた。俺はサツキの乱れた髪を整える。サツキは照れたように笑う。しかし、すぐに真顔になる。
 腰の辺りに、何かが押し付けられる感触があった。硬い感触。目を落とすと、バタフライナイフの柄が俺の腰に触れていた。俺のポケットの中にあったはずのナイフが、いつの間にかサツキの手の中にある。掏られたその感触はなかった。刃は仕舞われている。腰にナイフを埋め込まれた自分の姿を想像しながら、俺はサツキを見下ろした。サツキが悪戯っぽく笑う。
「ここ、腎臓」
 静かに言う。
「……ん?」
「わりと急所」
 わりと、でもなく急所。
「だから大丈夫」
「……そっか」
 何が大丈夫なのかよくわからなかったが、とりあえず俺は頷いた。サツキは頷き返し、俺の腰からナイフを離す。
 ラーメン屋に向かうときに見かけた男の死体には、刺し傷があった。腰に。さっきまでナイフの柄で触れられていた部分とおなじところに。サツキくらいの身長なら、腎臓は、喉や胸よりもずっと狙いやすい急所だろう。
「ちょっとさびてる」
「ん?」
「ここ」
 サツキはナイフの継ぎ目のところを指差した。確かに、茶色い錆がぽつぽつと浮いている。
「ちゃんと手入れしとかないと、いざってとき困るよ」
「いざってとき……、こないといいんだけどな」
「……うん、そうだねえ」
 サツキは遠い目をしながら頷いた。その表情に少しぞくりとする。
「行きのときに見かけたアレ――」
「アレ?」
「男の死体」
「ん……、違う」
「ああ」
「あたし……じゃないよ」
「わかった」
「うん」
 サツキはナイフを俺のポケットに戻した。俺はサツキの頭に手を乗せ、ぐっしょりと濡れたその髪を、手櫛で整えながら撫でつけていく。サツキは軽く嫌がってみせるが、その表情は、頬が緩むのを我慢しているようにも見えた。
「怖かったら――」
 ふいにサツキは顔を上げ、ほぼ真下から俺を見つめる。
「うん?」
「――いっしょにいてあげてもいいよ。怖かったら」
 からかうでもない、ごくあたりまえのことのようにサツキは言った。少し大人びた子供の表情。俺は数秒だけ考え、「いや、別にいい」と軽く意地を張って首を振った。
「そう?」
「ああ」
 俺はポケットに手を突っ込み、そこにあるナイフの感触を確かめた。触っていると妙に安心するそれを取り出し、「よっ」という掛け声とともに、適当な方向に放り投げた。
 ナイフは放物線を描き、やがて遠くの水面に波紋が広がる。かすかに遅れて、チャポンと小さな水音が聞こえた。
「あーあ」
 勿体なさそうにサツキが言った。
「まあ、いいじゃん」
「いいけどさ」
 サツキは俺を見上げ、からかうようにニヤニヤと笑い掛けてくる。
「何だよ?」
「いや、別にー」
「……雨、やまないな」
 俺は誤魔化すように空を見上げた。
「やっぱり泊まってく」
 サツキは俺の短パンに指を引っ掛けた。
「そう?」
「うん、眠い」
「……ああ、眠いな」
 雨続きの日々は鬱陶しいが、雨音のBGMは、何故だかよく眠れる。

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