長めの話を置いています
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クヅカ6
 懐中電灯の光を当てると、クヅカは一瞬遅れて目を細めた。
「まぶしい」
「うん」
「……うんじゃなくて、まぶしいよ?」
 僕は手首をだらんとさせてクヅカの足元を照らした。クヅカは橋の入り口のところにいて、クーラーボックスの上に座っていた。水色のクーラーボックス。釣りに行くときにクヅカがいつも持ち歩いているやつで、僕はそれを見て、何故だかわからないけれどふっと力が抜けた。
 クーラーボックスの横にはクヅカの懐中電灯があって、その光がクヅカを下から照らしている。クヅカはいつものへろへろのシャツじゃなく、真由がよく着ているような白っぽいワンピースを着ていた。肩が出てる袖なしのやつで、その肩に水着の日焼けの跡があって、それが何だかエロい気がした。
「座る?」
 クヅカはそう言ってクーラーボックスの上を半分空ける。
「うん」
 僕は懐中電灯を置いて、その半分に腰を下ろした。クーラーボックスは二人で座るには少しばかり狭くて、ぴたっとクヅカの肩が僕の肩にくっつく。クヅカの肩はひんやりと冷たくて、僕は思わずクヅカの横顔を見つめた。
「ん? 何?」
 クヅカは僕のほうを向き、軽く首を傾けながら微笑む。
「……クヅカ、なんかエロい」
 僕が誤魔化してそう言うと、クヅカはびっくりしたような顔になる。
「……エロい?」
「うん、エロい」
「……エロくないよ」
 クヅカは口を尖らせながら自分の肩をさすった。
「クヅカ、エロい」
「エロくないよ、もう」
 クヅカはそう言いながら僕の肩をゲンコツで軽く殴る。
「たっ」
 僕もクヅカの肩を同じように殴り返した。
「痛いって。……あ、ごめん、ちょっと立って」
 クヅカは立ち上がりながら言う。
「えー」
「いいから立って」
 クヅカは僕のシャツのすそをつかんで引っ張った。仕方なく立ち上がると、クヅカはしゃがんで、椅子にしていたクーラーボックスを開けた。クヅカの背中越しに覗き込むと、中には氷と三ツ矢サイダーとスイカバーとガリガリ君が入っていた。
「どれがいい?」
 クヅカは振り向いてにっこりする。
「スイカバー」
「うん、はい」
 僕にスイカバーを渡して、クヅカは自分にガリガリ君を手に取った。
「ありがとう」
「ん」
 クーラーボックスを閉じて、また椅子にする。くっついたクヅカの肩はやっぱり冷たくて、僕は泣きたいような気分になって、けれどスイカバーをかじって何とか我慢した。
「夜とかね、危ないから。……こういうのもうやっちゃダメだよ」
 クヅカがお姉さんぶって言う。それからガリガリ君をガリガリとかじった。僕は言い返そうとしたけれど、でも何も思い浮かばなくて、黙ったまま、スイカバーのチョコの種を奥歯でカシュッと潰した。
「わかった?」
 クヅカは怒ったふうにして僕の顔を覗き込む。
「……ん」
 僕が頷くとクヅカは満足そうに微笑んだ。ふう、と息をついてから顔を上げ、そのまま空を見上げる。僕はスイカバーをもう一口かじる。それから、クヅカと同じように空に顔を向けた。
 夜の空には星があった。襲いかかってきそうなくらいの星空で、それが少し怖くてどきどきした。じっと見つめていると足元が揺れる感じになって、僕はスイカバーを持っていないほうの手で膝をぎゅっとつかんだ。
「怖くない?」
 そっと聞く。
「んー、怖いの?」
 クヅカはのんびりと聞き返した。
「ん……」
「うーん、私はあんまり。……見慣れてるからかな」
「……なんかそれちょっとずるい」
 クヅカは「あはは」と笑って、
「ずるいかなぁ? ずるくないと思うよ」
 食べ終わったアイスバーの棒で、地面に丸とか三角とかを書いた。地面は真っ暗で、ちゃんと書けてるかどうかわからない。クヅカは鼻歌を歌っていた。「それ何?」と聞くと、「サトウチクゼン」と返ってきた。よくわからなかったので、「ふーん」とだけ言って、僕はあんまりちゃんと憶えていないドラえもんを書いた。「おっさんくさいよなぁ」とクヅカは独り言を言う。川の流れる音が聞こえる。虫の音が聞こえる。
 風が吹いているけれど、それでもやっぱり蒸し暑くて、肌がべとついた。クヅカは汗をかいていなくて、それでふっとデパートのマネキン人形が浮かんで、胸の奥がずくんとした。僕はスイカバーの棒を落とし、体を起こして、クヅカのほうに顔を寄せる。
「え? 何?」
 戸惑った様子でクヅカは聞いた。僕は答えず、クヅカの肩に顔をくっつけて、すう、と鼻で息をする。
「え? ちょっと?」
「……クヅカ、ちょっとタンスのにおい」
「ちょっ、何してんの、もう」
 クヅカは肩から僕の顔を引きはがした。それから頬をふくらませて僕をにらみつける。その顔が少しだけ可愛くて、僕は何となく笑ってしまった。
「何笑ってんの? もう、においとかかがないの」
「うん。……でも、けっこう好きなにおい」
 僕がそう言うと、クヅカは戸惑ったように眉を八の字にした。「もう」と言うと、またゲンコツで僕の肩を殴った。
クヅカ7
 近くに映画館はなかった。映画が見たければ、町まで車を飛ばすか電車を乗り継ぐかをするしかない。私の隣には父がいて、目覚ましガムを噛みながら車の運転をしている。私は眠たい目をこすりあくびをする。母は車酔いをする性質なので後部座席で目を瞑っていた。日は昇ったばかり。一日でいちばん気温の低い時間、少し開けた窓から入ってくる風が涼しく、このまま釣りに行きたくなる。
 何かやりたいことはないかと聞かれて、私は映画が観たいと答えた。田舎育ちの私には、映画を観ることもちょっとしたイベントだった。
 お盆休みで人手が多いのと、死んだはずの私が誰かに見られたら困るのとで、こんな早朝に出かけることになった。本当は演劇なんかも見たかったのだけど、どこでやっているのかわからなかったし、はずれたときがいやだったので、無難に映画にした。演劇が観たいと言ったら言ったで調べてくれるのだろうけど、そこまでの強い思い入れはなかった。
 父の横顔をちらりと眺める。再び死ぬまでの時間をずっと釣りに当てたいと言ったら怒るだろうか。いや、怒らないと思うけれど、たぶん少し悲しそうな顔はする。釣りは、私が死ぬ原因になったことで、そして手助けしなくていいやりたいことだ。
 私は釣りが好きで、でもそれはひとりで完結できてしまうことで、だからこんなとき何か申し訳なくなってしまう。自分がもっと積極的にあれがしたいとこれがしたいと言えて、死にたくないと泣き叫ぶような人間だったらと考えて、全然自分らしくないなぁと苦笑する。いつだったか友達に、「枯れてるねぇ」と言われたこともあったけれど、こんな自分が嫌いってわけでもない。
 ふと、友達に会いたいなと思う。カズミやアヤコに。葬式では二人とも泣いていたそうだけど、カズミはわかるとしてもアヤコが泣いているところは想像できなかった。いや、もしかしたら姉御肌のアヤコのほうが実は涙もろいのかもしれない。ごめんねと思うと同時に、少しからかってやりたくもなった。
「やりたいこと」で、友達に会いたいと言うのもいいかもしれない。許されることかどうかわからないけれど、帰ったときにでも言うだけ言ってみようと思う。
 砂利道がひび割れたアスファルトに変わる。車は川沿いの道を通り、私はつい川の中を覗き込んでいた。みやげ物屋とか民宿とかが増えてきているけれど、道の脇にはまだ雑草が生えている。土と草と水のにおいがして、ふと「タンスのにおいがする」と言ったタカヒコくんの言葉を思い出した。タンスのにおいってどんなだと思い、私は腕を鼻のところに持っていく。そのまま、すう、と息を吸うと、微かに薬品のにおいがした。防虫剤のにおいに近くて、確かに「タンスのにおい」という感じだった。
 タカヒコくんと同じで、けっこう好きなにおいかもしれない。変態かなぁ、と少し笑う。
クヅカ8
 夜。ロウソク。懐中電灯。車のヘッドライト。
 照らされた人影が気ままに動いている。ぼんやりとした四つの影。小さな女の子の人影にロングスカートの人影がまとわりつき、いちばん背の高い人影に男の子の人影が蹴りを入れ、蹴り返された。
 私はその四人をよく知っている。でも、いつの間にか知らない誰かに入れ替わっているんじゃないかと、そんな想像をする。マユちゃんとカズミ。アヤコとタカヒコくん。初対面同士なのだけれど、仲良くやっているようだった。
 車のほうを向くと、私の両親とタカヒコくんの祖父母がいて、四人でのんびりと雑談をしている。何を話しているかは遠くて聞こえない。私の話かもしれないし、まったく別の話かもしれない。私はひとりぽつんとクーラーボックスに座り、スイカバーをかじっている。花火の途中、疲れたので少し離れたところで休憩している。
 マユちゃんが花火を手に取り、ロウソクのほうに近づいていく。花火の先に付いた小さな紙にロウソクの火を移し、じっと見つめる。すぐにパチッと火花がはじけ、シューッと白い光が噴き出す。彼女は立ち上がって、空中でその光をぐるりと回した。それからゆっくりと丸や三角を描いていく。楽しそうな様子が見ていて微笑ましかった。
 煙とともに火薬のにおいが漂ってくる。ロウソクの近くと、私のすぐ横に水の入ったバケツがあって、役目を終えた花火がそこに何本も浸っている。私はあくびをし、クーラーボックスの端に手を突き、少し体を斜めにした。
 映画を観た日の夜、中島のおじいさんが本物のスイカを持ってやってきた。おじいさんは、私とタカヒコくんが途中の橋で待ち合わせをしたことを知らなかった。「てっきり玖塚さんとこに行ったかと思っとった」と頭をかき、それから、「女の子を夜中に出歩かせてしまってすまない」と頭を下げた。特に危ないこともなかったから別にいいのにと思ったけれど、おじいさんの顔が真剣だったので、「いやそんな別に」と顔の前で手を振った。するとおじいさんは少しほっとした顔を見せて、そのあと申し訳なさそうにタカヒコくんのことを話した。
 タカヒコくんはお盆休みが過ぎたら両親と一緒に帰る予定だったのだけれど、それを嫌がり、ごねて、夏休みの間、中島のおじいさんの家に留まることにしたのだそうだ。毎年中途半端な夏休みの宿題をちゃんとやるという、私なら「うえぇ」と思う交換条件を飲んだらしい。タカヒコくんが何故そんな行動をとったのか、理由は聞かなかったけれど、私のことがあったからだろうと簡単に想像できる。
「気ぃ悪せんやったらまた遊んだってくれんかな」とおじいさんはまた頭を下げた。両親は顔を見合わせたあと、私を見やった。おじいさんも私を見つめた。六つの目にせかされ、私は混乱したまま頷いていた。
 それから毎日のようにタカヒコくんに会った。何故かマユちゃんも一緒についてきた。マユちゃんも夏休みの間ここに留まるらしい。両親はつれて帰ろうとしたのだけれど、彼女は兄のシャツをぎゅっとつかんだまま放さなかったそうだ。頑固な兄妹もいたものだなぁと思う。
 やがて花火は燃えつきて、色鮮やかな光がひとつ消える。交代でカズミが花火に火を点ける。マユちゃんは火の消えた花火を持って、こっちに近寄ってくる。立ち止まって、水の入ったバケツに花火を投げ入れる。水の中で花火がジュッと鳴った。
 クーラーボックスに座っていると視点が低くなる。マユちゃんが私をじっと見つめている。いや、私じゃなく、たぶん私の口元にあるスイカバーを見つめているのだろう。「食べる?」と差し出すと、彼女はこくりと頷いて、シャクッと赤いアイスをかじった。むぐむぐ口を動かしながら私の太ももに手を置いて、そのまま這い上ろうとする。仕方なく私は彼女の腰に腕を回し、持ち上げて膝の上に座らせる。太ももとお腹に彼女の体重と体温を感じる。スイカバーを口のところに持っていくと、またシャクッとかじった。足をぶらぶらさせている。しばらくそのままでいたけれど、ふといたずら心が湧き起こって、私は目の前にある細い首筋にすっと指を滑らせた。
「ひゃっ」
 短い悲鳴を上げてマユちゃんは身をよじる。彼女は首を反らして私の顔を見上げると、にへーと笑った。
「おねえちゃん、つめたい」
 子供の体温は高く、死体の体温は低い。私は「そう?」と聞きながら、今度はぺたぺたとそのゆるんだ頬を触った。マユちゃんの頬はすべすべで柔らかい。私の指先はまだ感覚を伝えてきてくれている。「つめたいつめたい」と彼女は嬉しそうな悲鳴を上げた。
 そんなふうに遊んでいると、黒く焦げた花火を持ってカズミが歩いてきた。ジュッという水の音。私をちらりと見たその目が、「いいなぁ」と語っていた。「いいなぁ、マユちゃんに懐かれて」と。
 カズミはマユちゃんに一目ぼれをしたようで、ずっとまとわりついている。前からそれっぽいなとは思っていたのだけれど、どうやら本当にロリコンだったらしい。お願いだから犯罪者にはならないでおくれと心の中で祈りながら、「うらやましい?」と口の端で笑ってみせる。カズミは「くっ」と呻いて悔しそうに唇をかんだ。
 ロウソクの近くではアヤコとタカヒロくんがじゃれあっている。アヤコは男っぽいところがあるから、タカヒコくんみたいな男の子とは気が合うのだろう。仲良く花火をやっていたかと思うと、突然タカヒコくんがアヤコに組み付く。そんなタカヒコくんを、アヤコはどこかのガキ大将のように乱暴に扱った。引きはがして蹴りを入れ、けれどタカヒコくんも蹴り返す。その光景に男の友情みたいなものを感じたりする。一度拳を交えたらダチ、みたいな。
 一本のスイカバーを三人でかじった。棒だけになったところで、「休憩終了ー」と膝からマユちゃんを下ろした。また花火をやりにいく。マユちゃんが私の手を取って引っ張っていく。むくれたカズミが、マユちゃんのもう片方の手を握った。
「……水のにおい」
 歩きながらマユちゃんが言った。いつの間にか私の手を鼻のところに持ってきている。兄妹二人ともにおいを嗅ぐくせがあるみたいだ。
「水……?」
 私はつないでいないほうの手を嗅ぐ。タカヒコくんはタンスのにおいと言った。なんだろう、塩素のにおいだろうか。
「プールのにおい?」
 私はマユちゃんの顔を覗き込んだ。彼女は首を傾げ、「うーん」と唸る。上手く説明できないみたいだ。
「水のにおい。……川のにおいかな」
「うぉっ」
 カズミがいつの間にか私の背後に来ていた。私の肩辺りでスンスンと鼻を鳴らしている。カズミにはこういう得体の知れないところがあって、ときどきすごく驚かされる。
「ミサコ、釣りばっかしてるから、川のにおいがしみついてる」
「んー、そう? そうかなぁ」
 火薬のにおいがする。花火のにおい。私に気づいたタカヒコくんがすぐに寄ってくる。カズミがマユちゃんに花火を渡す。アヤコは二人を見て、目を細めて笑う。
「水のにおいだって」
「ん?」
 タカヒコくんは不思議そうに私を見上げた。彼は男の子だけれど、まだ私のほうが頭半分くらい高い。
「マユちゃん、水のにおいだって、私」
「……ふーん」
 また肩に顔を寄せられる。よくにおいを嗅がれる日だと思う。慣れてしまった感じもする。肩のところにある彼の頭を、私は少し乱暴に撫でた。指の間を滑っていく短い髪の感触が、ちょっとだけ気持ちよかった。
クヅカ9
 車とロウソクと懐中電灯。その三つの明かりでも、夜をぼんやりとしか照らせない。光の帯から少し離れるだけで姿を消せてしまい、怖いのに、頭のどこかはそれもいいかもしれないと考えている。胸の奥がむずむずする。それは恐れなのか、あるいはまた別のものなのか、わからない。
 ロウソクの向こうでアヤコと少年がじゃれあっている。まるで子犬の兄弟みたいだと思ったけれど、詩的な感じが恥ずかしいから口にはしない。すぐ横にマユちゃんがいて、目を移すと、今まさに花火に火を点けようとしているところだった。しゃがんで息をとめ、ぐっと手を伸ばして。少し怖がっている様子が何となく可愛い。頭を撫でたり頬を突付いたりしたかったけれど、危ないので今はやめておくことにした。
 少し離れたところでミサコがアイスをかじっている。休憩中のようで、クーラーボックスに座って、ぼーっとこっちを眺めている。のんびりしているところは変わらない。そのことに少しほっとするけれど、軽い苛立ちも覚えた。
 ミサコは死んで、まだ生きている。弔われたはずなのに、今のんきにスイカバーをかじっている。
 花火が白い光を吐き出す。マユちゃんは立ち上がって花火を振り回す。わたしが飛び散る火花を恐れて二三歩下がると、彼女はいたずらが見つかったときのような照れ笑いを浮かべた。振り回すのをやめてゆっくりと空に図形を描く。丸や三角。ひらがな。楽しそうな様子に、つい笑みがこぼれた。
 持っている花火の火が消えると、マユちゃんはキョロキョロと辺りを見渡しはじめた。ミサコを捜しているのだろうと思ったけれど、くやしいので黙っておいた。わたしが自分の花火に火を点けるのとほぼ同時に、マユちゃんはミサコを見つけて小走りにそっちに向かった。
 火は赤から緑に変わる。わたしは花火から噴き出る光をじっと見つめる。物悲しい気持ちにもなったけれど、それも悪くない気がした。花火の光はやがて消える。
 黒焦げになった花火を持って、わたしもミサコのところに行った。ミサコの膝の上にマユちゃんがいて、まるで仲の良い姉妹のようだった。マユちゃんはミサコを「おねえちゃん」と呼び、他の誰よりも懐いている。
「うらやましい?」
 ミサコがわたしを見上げて口の端で笑った。意地の悪い笑み。もちろんうらやましいに決まっているのだけれど、ミサコには意地悪をする才能がなくて、こういうとき妙になごんでしまう。それでも呻いて唇をかむと、ミサコは「あはは」と楽しそうに笑った。
 スイカバーをひと口もらう。向こうでアヤコと少年がしゃがんで、ぼそぼそと何かを話している。マユちゃんが足をぶらぶらさせて、それに合わせてミサコの体もゆらゆらと揺れる。
 わたしはミサコを見つめる。首筋。耳。唇がわたしの知らない歌を口ずさむ。てのひらが小さな女の子の頭を撫でる。
 この光景を憶えておきたいと思う。じっと見つめて目に焼き付ける。忘れっぽいわたしは十年もすればミサコの顔を忘れてしまうかもしれない。それでも今は、彼女をずっと長く記憶にとどめておきたいと願う。
 ミサコの指先がマユちゃんの髪をなぞっていく。つむじの横から耳の後ろ、細い首筋。わたしも同じように後ろからミサコの髪を撫でた。
「ん?」
 ミサコは首を反らし、わたしを見上げた。その顔が無邪気で間抜けで、ふいに泣きそうになった。けれど恥ずかしいからぐっとこらえて、口の端でちょっと笑ってみせる。
「何か付いてた?」
「や、何も」
「そう?」
「……うん」
 髪を撫でる。マユちゃんが気持ちよさそうに目を細めている。


クヅカ10
 冷房は18℃だった。少し肌寒そうな二人にカーディガンと長袖のシャツを渡す。マユちゃんは嬉しそうに「ありがと」と応えたけれど、タカヒコくんは素直じゃなくて、「いいよ、別に」とすまして言った。
「ごめん、冷房切るね」
「……いい、いい」
 そう言ってぶんぶんと首を振るタカヒコくんに、口元がむずむずした。笑みをこらえて、「じゃあ、これもらって?」とシャツを差し出すと、タカヒコくんは少しためらったあとにようやく受け取った。私の服を羽織った二人は、同じタイミングで袖のにおいを嗅いだりして、私は思わず吹き出した。不思議そうに私の顔を覗き込んできたタイミングもまた同じで、さらに吹いてしまった。
「何でもない」
 私は何とか笑いをおさめて言う。
「んー? うん?」
 タカヒコくんは首を傾げながらも頷いた。
 ベッドに座ると、すぐにマユちゃんが寄ってきた。彼女は私の膝が気に入ったみたいで、私がどこかに座ると必ずそこに這い上った。私の膝の上でしばらく足をぶらぶらさせていたけれど、やがて持っていた携帯ゲームをやりはじめた。
 ゲーム画面が横に流れていく。マユちゃんは指を複雑に動かし、画面を見つめたままあんまり瞬きもしない。頬を突付いてみたけれど、今は忙しいらしく、「んー」と嫌がるだけなのが何だかさみしかった。
 タカヒコくんは私の右後ろに寝転がって、ずっと漫画を読んでいた。今読んでいるのは田中メカ。ちょっと前の少女漫画で、たぶん名前と『お迎えです。』というタイトルに気をひかれたのだろう。「面白い?」と聞くと、「んー、うん」とやる気のない答えが返ってきた。マユちゃんと似た反応が微笑ましい。兄妹なのだなぁと思う。
 今日は八月三十日で、明日の朝には迎えが来て、二人は家に帰る。私と遊ぶのは今日が最後で、せっかくなのでカズミとアヤコも呼んでいた。昼前に来ると言っていたから、もうそろそろやって来るはずだ。
 ゲームがぴこぴこ鳴っている。私はやることがなくて、マユちゃんの髪をいじって遊んだ。髪を三つ編みモドキにしてまたほどく。ポニーテールにしたり、左右で二つにまとめてみたり。髪のゴムが近くになかったから、輪にした指をその代わりにする。マユちゃんの髪は細くてさらさらで、なかなかうらやましく、いじっていると妙になごんだ。
 ふと目をやると、タカヒコくんはあくびをして大口を開けていた。目が合ったので軽く笑ってみせると、タカヒコくんは恥ずかしそうに目をそらした。すぐにマユちゃんが「んー」と伸びをする。ゲームを終えたらしい。彼女はじりじりと体の向きを変え、私と向かい合った。笑いかけてきたから笑い返すと、マユちゃんは私の首に腕を回しぎゅっとして、私の肩辺りに顔を埋め甘えてきた。突然のことで少し戸惑う。
「ん? どうしたの?」
 聞いても、「んーんー」と喉を鳴らすだけで何も答えてくれない。タカヒコくんが、しょうがないなぁという顔をする。私は少し首を傾げてみせたけれど、タカヒコくんはすぐに漫画に戻ってしまった。冷たい子だ。
 もしかするとマユちゃんは、さっきので私がすねたかと思って、かまってくれているのかもしれない。いや、ただ単にこうやって突然甘えてくるくせがあるのかもしれない。
 ともかく私は、マユちゃんの頭を撫でたり背中をさすったりした。泣いてる子にする対応だなぁと思いながらも続けていると、しばらくしてマユちゃんは顔を上げた。にへへと照れくさそうに笑う。鼻血が出そうな笑顔だった。
「どうしたの?」
 顔を覗き込んでもう一度聞いた。ちょっと油断した。頬にキスされた。
「へっ?」
 間抜けな声が出た。マユちゃんはまた私の肩に顔を埋める。「マユちゃん?」と呼びかけても彼女は顔を見せないままぐりぐりと首を振った。それは、いろいろ、ずるい。タカヒコくんがびっくりしたような目で私とマユちゃんを眺めている。どうしようかなぁと考えてから、
「んー、じゃあ仕返し」
 私も腕の中の彼女にキスを返した。頬に軽く触れる。マユちゃんは「やー」と悲鳴を上げて、またぐりぐりと首を振った。ぐりぐりされる鎖骨が少し痛そうな気がした。
 さらに二三秒ほど考えて、「タカヒコくん」と私はにっこりして呼びかけた。タカヒコくんは怯えたようにびくりとした。
「ちょっと来て」
 怯えた目をした年下の男の子に欲情する。
「来て来て」
 手招きする。タカヒコくんは膝立ちで、恐る恐るという感じに近寄ってきた。
 口にしようかと一瞬迷ったけれど、やっぱり頬にした。トラウマを植えつけるはやめておくことにした。タカヒコくんは頬に手を当て、難しい顔をしている。どう反応していいのかわからないのだろう。頭を撫でると赤くなった。こんな行動、私らしくない気もしたけれど、たまにはいいかなと思う。照れる二人を交互に眺める。頬がゆるむ。


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