長めの話を置いています
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スペース3
「ご飯、食べてく?」
 渡会がシャーペンの先でヨコの18を突付きながら聞いた。
「よければ。……それ、矢田亜希子。ヨコの18」
「ん、オッケー。サンキュ」
 渡会は升目にヤダアキコと書いて、立ち上がった。
「手伝うこと、ある?」
「んー……、特にないかな」
「そう?」
「うん。じゃあちょっと待ってて」
「手伝うことあったら言って」
「うん」
 渡会は部屋を出る。ほどなくして階段を下りる音が聞こえてくる。渡会の家に来たときは、大抵晩御飯を一緒に食べる。渡会が料理するときもあれば、わたしが材料を買ってきて作るときもあった。あまり二人で台所に立つことはしない。それは、見られていると何となく落ち着かない気分になるからで、確認はしてないけれど、渡会もそうなのだろうと勝手に思っている。
 立ち上がって窓際に向かう。少しだけ開けてある窓に指を引っ掛けてカラカラと開けた。カーテンが揺れる。生ぬるい風。窓から地面を見下ろす。埃っぽい乾いたアスファルト。中途半端な時間だからか、誰も通らない。誰もいない。わたしはポケットから携帯を取り出し、自宅に掛けた。電話に出た母に、夕飯は渡会のところで食べるので自分のは作らなくていい、と告げる。母は頷いたあと、「あんまり迷惑掛けちゃだめよ」とだけ言った。何度も交わしてきたやりとりだ。
 普段は口うるさい母だけど、わたしの友人関係については昔から口出しをしてこなかった。興味がないのか、それとも口出しすべきでないと考えているのか。母は今の渡会の状況も知っているはずだけれど、詮索してくることもなく、そのことは何気に嬉しく感じていた。もしかしたらわたしは親に恵まれているのかもしれないとふと思い、苦笑のようなものが浮かんだ。渡会に対して申し訳ないような、でもそう思うのも何となく嫌な気がして、自分でもよくわからないもやもやとした気分になる。渡会は自分の親のことをどう思っているのだろう。もし自分だったらと想像し掛け、苦いものを感じて、やめた。
 ついでにメールチェックをすると二件入っていて、どちらも雑談メールだった。すぐに返信しなくてはいけないようなものでもなかったので、また暇なときにでも返すことにして、携帯を折り畳みポケットに仕舞った。
 渡会が仕事を辞めたことを知ったのも、友人からのメールだった。ガソリンスタンドで働き出す前のことで、彼女はアクセサリーか何かの店で売り子をしていた。彼女の弟のことを知り心配になったという子が、ある日覗いてみたらもう辞めていたそうだ。また聞きの話で、情報元になった子は、渡会とはそんなに親しくなかったはずだ。
 興味本位を心配にすり替える人間がいる。少なくないだろう。全部を否定するわけではないけれど、「心配して」という人達の幾人かが、渡会が仕事を辞める原因の一つになったのは確かなことだと思う。渡会は携帯電話を持たなくなった。
 わたしはそうじゃないと、興味本位を心配にすり替える人間じゃないと、そう言い切れないのがたまらなく嫌だった。覗きに行った子にも悪気があったわけではないのだと思う。わたしは積極的にそうしようとは思わないけれど、もし相手が渡会じゃなくあまり知らない人で、誰かに誘われたりしたのなら、軽い罪悪感を抱きながらもそれに付き合っていたんじゃないだろうか。
 苦い思いを、ため息として吐き出した。
「できたよー。下りてきて」
 階段の下から渡会の呼ぶ声が聞こえた。明るいお気楽な声。エプロン姿でおたま片手に階段下から二階を見上げる渡会の姿を何となく想像した。勝手に想像した漫画のような一コマに、つい口元がゆるむ。わたしは自分の頬を軽くはたき、憂鬱な気分を払いのける。「あいよ」と返事して、カラカラと窓を元の位置に戻してから部屋を出た。
スペース4
 渡会の弟の部屋の前を通り過ぎて階段を下りる。食器がぶつかり合うカチャカチャという軽い音が一階から聞こえてくる。階段を下りるわたしの足音。この家にはわたしと渡会しかいないということをふいに意識して、つい切ないような気分になる。一階に下りてからリビングに向かう。
 リビングのテーブルにはパスタの入った深皿と、レタスとキュウリとタマネギとリンゴを適当に切ってマヨネーズで適当に混ぜ合わせたサラダと、グラスが二つとビールとチューハイが乗っていた。
「具、何?」
 海老とタマネギはわかる。醤油のにおいがする。
「海老と蛸としめじ。炒めて醤油とお酒で味付け」
「蛸?」
「うん。蛸からいいダシが出る」
「ふーん」
「蛸、すごい水出るから」
「へえ」
 向かい合うようにテーブルについて、わたしはグラスにチューハイを注いだ。渡会はビールだった。わたしも彼女もそれほど酒に強くはないけれど、あったらあったで飲むほうだ。
「乾杯」
「乾杯」
 グラスを持ち上げ、カツンと軽く合わせた。喉を鳴らす。
「いただきます」
「どうぞ。……いただきます」
 手を合わせてから、度会作の和風海鮮パスタにその手を伸ばした。フォークをくるくると扱い、適当に巻きつけた麺を少し冷ましてから食べる。
「……あ、けっこういける」
「……ん」
 渡会は嬉しそうに微笑んだ。彼女も麺を巻きつけて冷ましたあと、口の中に入れる。「あつつっ」と呟いて、慌ててビールに口をつける。パスタの麺はよく冷ましたつもりでもけっこう熱かったりする。わたしが口元で笑うと、渡会は照れくさそうにしながらまたグラスを傾けた。白を基調にした清潔感のあるリビングが目に優しい。その代わりに、少しさみしくも感じる。気が向いたらテレビを点ける。今日はたまたま点けていない。
 渡会の母親は自分の実家に戻るとき、娘も一緒に連れて行こうとした。けれど、娘の渡会笑美は、それに首を振った。理由は、父親を一人残してしまうのが何だか心配だったから。それと、弟が戻ってきたとき、親よりも姉弟がいたほうが話をしやすいだろうと思ったから。去年の夏の終わり、酔っ払った渡会本人から聞いた話。その結果、渡会はひとり取り残された。
 渡会はグラスに二杯目のビールを注いだ。わたしも二杯目のチューハイを注ぎながら、渡会の顔をちらりと横目で眺める。うまくいった料理とアルコールとで、渡会はとても機嫌のよさそうな笑みを浮かべている。わたしはグラスのチューハイを一気に半分くらい飲んだ。
 ふう、と息を吐く。見捨ててしまえばいいのに、とわたしは心の中で呟く。他の家族が手放してしまったものを、渡会が一人で留めている。いちばん気にしなくていいはずの人間が、いちばん囚われている。囚われるべきは、渡会笑美以外の家族なのに。
 けれど、と思う。けれど渡会が見捨ててしまったら、この家は終わってしまうだろう。この場所に「渡会」という家族がいた、その痕跡がなくなってしまう。想像しかできないけれど、それはおそろしく悲しいことなのだと思う。最後に残って、最後に見捨てる人間が、最もつらい思いをする。それはある種当然のことなのだろうけど、やり場のない怒りと苛立ちを覚える。
「……ん?」
 渡会がわたしを見ながら小首を傾げていた。渡会の顔をじっと見つめていたことに気づいて、わたしは軽く笑って、「何でもない」と首を振った。
 わたしは目を細めて、インターホンが鳴るところを想像する。渡会は首を傾げながら立ち上がり、インターホンの受話器を上げ、何かを話してから玄関に向かう。そこにいたのは渡会の家族の誰かで、その誰かはすまなそうに顔を伏せている。そして、渡会と幾つか言葉を交わしたあと、気まずそうに謝る。渡会は少し戸惑いながら、でも嬉しそうに首を振る――。
 そんなくだらない人情ドラマのようなシーンを想像した。そんな安っぽい感動的な展開を、わたしはどこかで望んでいた。
スペース5
 人がいないのをいいことに、レジの中で就職情報誌を開いていた。ペラペラとめくって、三十ページほど目を通したところで、一息ついて顔を上げる。すると、すぐにタイミングよくお客が一人入ってくる。
 お客はまず文庫の新刊スペースに張り付き、そのあとハードカバーの新刊スペースに足を向けた。その行動パターンと背格好で、この前ハードカバーを買っていった人だと気づく。確か五日前。ちらりと時計を見ると、この前と大体同じ時間だった。渡会と最後に会ったのも五日前。渡会はこの五日でさらに日焼けしているのだろうなと思う。このお客は一体何の仕事をしているのだろうと、さほど意味のないことをたらたらと考えた。
 お客はハードカバーを手に取り、パラパラとめくり、値段を確かめてまた棚に戻すということを何度か繰り返している。わたしはその人を意識しながら、就職情報誌にまた目を落とした。
 店内は冷房が効いているけれど、レジの中はじんわりとぬるかった。連日の晴天。二時過ぎの陽は少し傾いていて、ちょうどレジ裏の壁が直射日光に晒されている。あと一時間ほどはこの中途半端な気温のままだ。欠伸が漏れそうになり、口を手で覆いながらかみ殺した。
 就職情報誌を閉じて、見るともなしに店内を見渡した。平日の昼間だとしても、もう少しお客の姿があったほうがいいんじゃないだろうか。冷やかしのお客でもいいから。と、勝手にそんな心配をする。ここの経営者である父と話してみようかなと一瞬思うが、その前に自分の就職先を見つけるほうが先だと言われそうな気がしたので黙っておくことにした。
 実際に欠伸が漏れてしまい、慌ててその口を手で押さえた。ちょうどそのとき、バイクの止まる音が聞こえた。渡会かなと思い、何となく入り口のほうに目を遣ると、すぐにその渡会がひょっこりと顔を覗かせた。目が合って、彼女は一瞬びくりとした。わたしは思わず、チッチッと舌を鳴らしたくなった。近所の野良猫にするみたく。
 渡会は口元で笑い、今日は真っ直ぐにすたすたと私のところに来て立ち止まった。近くなった渡会の笑みは、少しこわばっているように見えた。
「引っ越す」
 渡会は唐突に言った。
「うん」
 わたしは反射的に頷いた。言葉の意味を理解するための二、三秒。そのあと、「引っ越すの?」と、かなり頭の悪い発言をした。
「うん、引っ越す」
「そっか……」
「一年待ったし」
「……うん」
「もういいかなって」
「うん」
「一人くらい戻ってくるかなって……思ったんだけどね」
 明るい声。薄く苦い笑み。少しだけ悲しそうな目。
「うん」
「そんなにうまくいかなかったよ」
「……うん」
 頷くことしかできなかった。わたしは渡会の小麦色の肌を見つめる。五日分、また焼けている気がする。元々彼女は真っ白な肌をした線の細い少女だった。けれど、この健康的な肌の色なら、そのイメージは払拭できる。近所のおばさんに心配顔はされない。されにくい。遊びに行って焼けたのなら、いらぬ陰口を叩かれるかもしれないけれど、彼女はガソリンスタンドで働いていて、そのせいで日焼けした。
 心配顔をされないために彼女はガソリンスタンドという職場を選んだんじゃないだろうか。勝手な想像だけど、それほど事実と掛け離れているとは思わない。
 渡会の移動手段は原付バイクで、それを呼び止めてまで世間話をするうわさ好きのおばさんや同級生は少ないだろう。走るバイクを呼び止めてまで、心配しようとする人間なんて想像できない。他人からの「心配」を避けるために、渡会はガソリンスタンドで働き、原チャリで通勤していたんだろうと勝手な想像もする。
 そんなふうに、渡会は待っていたんじゃないだろうか。たぶん、一年間だけ待つことに決めていたんじゃないだろうか。
「でも、そんなに悪くなかったよ」
「……そう」
 わたしは少し目を伏せる。渡会は少し上を向いて、一度深呼吸をしてからわたしの顔を見つめる。
「それから、ありがと」
「……ん?」
 顔を上げて首を傾げるわたしに、渡会は照れくさそうに笑った。
「あんたがいてくれなかったら、きっと、きつかった」
「そう?」
「うん。……つらかった、と思う。ありがと」
「……お礼なんて」
 声が湿った。バカみたいにあっさりと涙ぐまされた。やばい、と思って慌てて顔を伏せた。にじんだ目の端に、渡会のにんまりとした顔が映る。
「泣いた?」
「別に……泣いてなんか……」
 渡会の手が、子供をあやすようにわたしの頭を軽くポンポンと叩く。その手の感触が柔らかくて、本当に涙がこぼれそうになった。
「泣かしてやろうって思ったんだけどね。……でもほんとに泣かしちゃうと、どうしていいのかわからなくなっちゃうね」
「何それ……、むかつく……」
 言い返したその声は、わたし自身の耳にも涙声として届いた。
スペース6
 うつむいたまま顔を上げられないわたしの頭を、渡会の手がやりたいほうだいに蹂躙する。渡会は「へへへ」とからかうように嬉しそうに笑っている。
 ハードカバーを物色していたお客が、その中の一冊を手に取ってレジに近付いてくるのが見えた。けれどレジの中で何故かうつむいている店員と、その頭を撫でながら不気味に笑っている日焼けした女というどこか非現実的な光景に気後れしたのか、途中で引き返してふらふらと手短な棚に張り付いた。そのいい人そうなリアクションに少しなごんで、同時に気を遣わして申し訳ないような気分になる。横目で見ながら会釈すると、お客はすっと目をそらし、棚から文庫本を取り出して、開きながら微かに頷いた。照れてしまったらしく、耳が赤い。
 いい加減顔を上げようと深呼吸をする。髪はかなりぼさぼさになっていると思う。目の下を擦って、ようやくという感じに顔を上げると、渡会は「おーおー」とにっこりしながらまたポンポンと軽く頭を叩いて、やっとその手を引っ込めた。やはりからかうような笑みが渡会の口元にあって、わたしはそっぽを向きながら髪を整えた。
「いつ引っ越すの?」
 拗ねたような言い方になってしまい、舌打ちしたい気分になる。
「来週」
 あっさりと渡会は言う。
「そう……」
「一旦、母親の実家に行って、保証人とかのをいろいろやって、それからお引越し」
「一緒に住まないの?」
「んー、仕事あるし。実家遠いし」
「ガソリンスタンド?」
「うん。けっこう居心地いいから。……おっちゃんばっかだけど」
「ちやほやされてんだ」
「いや、そんなことないよ。ぼーっとしてると怒鳴られるし」
「それ、ぼーっとしてるほうが悪いんじゃない?」
「……ん、うん。まあ、そうなんだけど」
 言葉につまる渡会に、わたしはようやく微笑んだ。渡会も笑って少し顔を寄せる。小声で言う。
「ごめんね仕事中に」
「ん、いや」
「今から実家行かなきゃなんないから」
「え?」
「うん」
「えと、あそこ、引き払ったの?」
 渡会が一年間待っていたあの家。誰も戻ってこなかったあの静かな場所。
「んー……、まだだけど、でも、もう戻ってこないかな。今週は実家に泊まって、来週、引越し先に直接向かうから」
「……そう」
 さみしく感じる。軽く胸を締め付けられるような感覚があって、中途半端に手入れされた庭とか、庭先に置かれた原チャリとか、穏やかで静かなあの空間とか、白くて広くて淋しいリビングとか、あそこにあったいろいろなものを思い出した。
「そんで、これ」
 また涙腺がゆるみ掛けたわたしに、渡会はすっと右手を差し出した。人差し指と中指で二つ折りのメモのようなものを挟んでいる。
「ん、何?」
 受け取って開けると、真ん中辺りに見知らぬ住所と部屋番らしきものが書き殴ってあった。
「引越し先。ちゃんと引っ越したらまた電話するけどね、一応」
「…………」
「どしたの?」
 メモに目を落としたまま動かなくなったわたしの顔を、渡会は怪訝そうに覗き込む。わたしはただメモの文字を見つめていた。三回くらい目で字を追う。文字の意味がなかなか頭の中に入ってこない。
「何か……、渡会って誰にも何にも言わずに出て行くような気がしてたから」
 ほとんど無意識にわたしはそう言った。渡会は「そんなこと……」と苦笑して、
「いや、それもいいかな、ドラマみたいで」
 意地悪い笑みを浮かべながら手を伸ばしてくる。わたしは慌ててメモを遠ざけた。
「一応もらっとく。せっかくだから」
「そう?」
「そう」
 わたしは頷いて、まだ意地悪い顔をしている渡会を軽く睨み付ける。渡会はニヤニヤ笑いながら手を引っ込めた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
「うん、じゃあ。……あっ、バイクで行くの?」
「うーん、一時間半くらいかなぁ」
「遠いな、おい」
「でもまあ、わりと慣れてるし」
「そう?」
「そう」
「ん。じゃあまた来週。引っ越したら電話してね」
「んー、気が向いたらね」
「いや、しろって」
「気が向いたら……うそうそ、ちゃんと連絡するって」
 顔の横で軽く手を振りながら、わりとあっさり渡会は出て行った。わたしはレジに肘をつけて、ふう、とため息をつく。お客が文庫本を開きながら居心地悪そうにしているのが見えて、そっと会釈する。お客は文庫本を棚に戻し、唇を引き結んで、「いやいや気を遣ったわけじゃありませんよ、本を選んでいるだけですよ」と言わんばかりにまた他の棚に移動した。わたしは微笑む。大変申し訳ない、と思う。
 さっきの渡会との会話を思い出す。最近の渡会のテンションじゃなかった。軽くて、やたらからかってきて、意地悪で、ニヤニヤしていた。一年前までの渡会のテンションだ。そのことに、何故かさみしいような、懐かしいような気持ちになる。
 また目が潤んだ。どうも最近、涙腺がゆるみやすくなっている気がする。それでも、書き殴った渡会のメモと、気を遣って店内をふらふらしているお客とで、少し無理に笑ってみる。ちらりとお客のほうに目を向けると、不意打ちでそのお客と目が合った。お客は一瞬ぎょっとして、それから怪訝そうな、でもどこかほっとしたような顔付きになる。
 その微妙な表情に、わたしはつい吹き出し掛けた。失礼だなと思いつつも、でも何か可笑しくて、大声で笑い出したくなった。
クヅカ1
 じいちゃんの家は広くて、広い庭があって、でかい猫がその縁側で眠りこけていた。庭には柿の木とかビワの木とか、これまたでかい木が五本くらい植えてあって、そこに張り付いた蝉が絶え間なく鳴き続けている。庭の囲いの向こう側に山が見える。濃い緑だ。ここから十分も歩かずにその山のふもとまでたどり着ける。周りには家よりも田んぼや畑のほうが多くて、ビルやマンションとか、三階建て以上の建物はこの辺りでは見かけなかった。じいちゃんの家は母さんの田舎で、ここは田舎らしい田舎だった。
 僕と真由は夏休みで、父さんと母さんもお盆休みで、そんなわけで僕ら一家はじいちゃんの家に遊びに来ていた。夕方と呼ぶよりも少しだけ早い時間、僕は縁側に寝そべって、板張りの冷たさを味わっていた。でかい猫は頭の方向にいる。白猫だから「シロ」と名付けるのは定番で、田舎くさくて、それだけで何となくのんびりした気分になる。奥の部屋から生ぬるい風が吹いてくる。古い扇風機があたたまった空気をかき混ぜていて、蝉がうるさくて、縁側が冷たくて、だから僕はだらだらと眠ったり、うとうとと眠りかけたりしていた。やる気なく「シロ」と呼びかけると、彼もだらだらと一回だけ尻尾を振った。
 みしみしという足音が二人分聞こえて、そのテンポと音の加減でじいちゃんと真由だとわかった。けれど僕は少しばかり面倒くさく思って、眠りかけのぼんやりとした感触に浸ったままでいた。
 じいちゃんは庭に降りて草木に水をやり始めた。真由は僕のそばにぺたんと座って、少しぼーっとして、それから僕の頭をぐりぐり撫でた。僕はだらだらしたまま動かずにいて、真由はしばらく撫でていたけれど、そのうちに飽きて、持ってきたゲームボーイアドバンスをてれてれやった。真由はそれにもまた飽きて、最後にシロの耳とかしっぽとかで遊んだ。シロは迷惑そうにしながらも、ずっと遊ばれてやっていた。よくできた猫だと思う。
 水をまき終えたじいちゃんは、台所に行ってスイカを切って持ってきてくれた。さすがに僕も起き上がって、出されたスイカにかぶりつく。父さんと母さんとばあちゃんは親戚の家に挨拶に行っていて、そのまま今夜の宴会の準備をしているらしい。スイカを食べている間も、真由はシロを撫でたりいじったりしていた。夕方ごろ、宴会の準備ができたという母さんからの電話で、ようやくシロは開放された。


 僕の隣で真由は眠たそうだった。真由はわりと人見知りするほうだから疲れたのかもしれない。窓の外は暗くて、上を向くとちゃんと灯りがあるのが見えるけれど、僕が普段目にしているのとは全然違っていた。車のライトがないとほんの少し先も見えなかった。
 僕と真由は後部座席にいて、じいちゃんが運転して、ばあちゃんがその隣でニコニコしている。じいちゃんもばあちゃんも元から笑ったような顔立ちの人だった。真由はわりとじいちゃんに懐いていて、ときどきばあちゃんが少しだけさみしそうな顔をする。僕はどちらかというとばあちゃんといるほうが居心地よくて、それで何となくバランスが取れているのかなと思う。
 父さんと母さんはまだ親戚の宴会に付き合っている。僕は刺身とか焼肉とか三ツ矢サイダーとかを食べたり飲んだりして、親戚の酒くさいおじさんやおばさんに話しかけられて、「大きなったなぁ」と何度も言われて、真由は人見知りでじいちゃんにべったりで、退屈してたらちょうどいいタイミングでじいちゃんに呼びかけられて、じいちゃんの運転する車で先に帰ることになった。
 じいちゃんの家の前に着いたときには、真由はもう眠り込んでいた。体の力が抜けてぐにゃぐにゃだった。むにゃむにゃいう真由を抱えるように車のドアの近くまで引っ張ってくると、じいちゃんがドアを開けて、真由をひょいと抱き上げた。じいちゃんのにおいとか感触とかを憶えていたのか、真由はゆるい顔になってじいちゃんの首に腕を巻きつけた。かわいい孫にそんなふうにされて、じいちゃんの顔もゆるむ。ばあちゃんは「あらあら」と言いながらも、少しうらやましそうだった。
 真由を布団まで運んだあと、「さすがに疲れた」とじいちゃんは言って、すぐに自分の寝室に引っ込んでしまった。ばあちゃんは居間で自分と僕の分の麦茶を出して、「美味しかったかい?」とか「憶えてた人いる?」とか、そんな何でもないことを聞いた。僕はテレビを見ながら、「うん」とか「あんまり」とか答えた。ばあちゃんも疲れてたらしく、しばらくするとあくびをもらして、「あんまり遅くまで起きてちゃだめよ」と言ってから寝室に向かった。
 昼間寝てたせいか、全然眠たくならなかった。黒くてくっきりとした柱時計に目をやると、まだ九時前。父さんと母さんは、今日は親戚の家に泊まるのかもしれない。九時を過ぎると見たいテレビがなくなった。ドラマとか映画とかばっかで、クイズとかバラエティーとかはやってなかった。ゲームでもやろうかなと立ち上がって、真由と僕の部屋に行こうとしたとき、ふと、居間の入り口の脇に置いてある電話と、その隣にある懐中電灯が目に入った。
 僕は立ち止まって少し考える。もう一度時計を見る。九時十二分。電話をかけてもまだぎりぎり大丈夫な気がした。手書きの電話帳からクヅカを探す。「玖塚」という名前があって、たぶんこれだと思った。一度深呼吸をしてから受話器を上げた。番号を押して、どきどきしながら待った。
「はい、玖塚でございます」
 女の人が出た。クヅカよりもずっと年上の、落ち着いた感じの声だった。たぶん、クヅカのお母さんだ。
「もしもし、中島といいますけども」
 焦って少し早口になっていた。心臓がバクバクいっていた。もっとかっこいい名前だったらな、と、ちらりと思う。それから、クヅカの下の名前を思い出そうとした。確か「ミ」ではじまる……。ミズキじゃなくてミナコじゃなくて……。「えーと」を三回くらい繰り返してからやっと出てきた。
「ミサコさん、いますか?」
 クヅカミサコは僕よりも二つ年上の女の子だ。
「……え……ええ、ちょっと待ってね」
 クヅカのお母さんは一瞬驚いたみたいだった。僕は「はい」と頷いて、流れてくるオルゴールみたいな音楽を聞きながらしばらく待った。九時十六分。
「もしもし、タカヒコくん?」
 九時二十三分を過ぎたころに、ようやくクヅカのゆるゆるとした声が聞こえてきた。
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